明治から昭和の物流を支えた「郵便・荷物列車」 房総半島へと向かう両国駅3番線ホームの思い出

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郵便・荷物列車を覚えておられるでしょうか?文字通り郵便物や荷物を運ぶ列車で、明治期から昭和まで活躍していました。しかし、飛行機や高速道路の発達により姿を消した列車です。

私・マグナム小林が子供の頃の昭和50年代は、113系や115系などの近郊形列車や、キハ40などの気動車の先頭をクモユやクモニ、キユニなどの郵便・荷物列車が走る光景がまだ見られました。さすがに東海道線や東北本線の東京口、上野口ではもう見られませんでしたが。その頃は、郵便輸送はほとんどなく、夕刊などの新聞輸送がメインです。

私は、この郵便・荷物列車が好きで、子供の頃にやっていた鉄道模型でも当時では珍しいクモユニ143を買って貰った覚えがあります。当時まだ今ほど大きい会社ではなかったマイクルエース社製だったと思います。

たぶん、郵便・荷物列車を実際に見ていなければ、そんなに好きになっていなかったでしょう。私が住む千葉では全国で最後まで荷物輸送が残っていたこともあり、見る機会が得られました。当時は主に、今ほど道路事情が良くなかった房総半島への夕刊輸送の為でした。房総半島は本当に交通事情が悪いので。

今にして思えば豪華だなと思うのが、クモユニ74の4連運転。昔は総武本線や成田線も新聞輸送をしていたんですよ。昼前に幕張電車区を出発したクモユニ74の4連は両国駅の3番線ホームに到着。

ここで両国駅の説明を少し。昔は鉄橋を作るというのが大事業。ですから、両国駅は千葉に向かう東京側の一大ステーションでした。房総半島への特急、急行の始発駅です。特急、急行が出発していたのが、普通列車のホームから一段下がった3〜5番線ホーム。特に潮干狩りや海水浴シーズンはかなり活況だったとか。この頃の様子は3番線ホームへの通路に写真が今も展示されています。

その後、東京駅の地下駅が出来て両国駅の特急運用はほぼ終了。私が子供の頃は急行の始発駅でした。それも急行が廃止されると3番線ホームには荷物電車しか到着しなくなりました。

話が逸れましたが、昼過ぎに両国駅3番線ホームに着いたクモユニ74の4連は各社の夕刊を積んで千葉駅へ。千葉駅で内房線、外房線、総武本線、成田線に分かれて、普通列車(私が子供の頃は113系)の後ろに接続され、普通列車と共に各駅に停まり、新聞を下ろしていました。帰りは逆に普通列車の先頭となって千葉駅まで帰ってきて、幕張電車区に戻るという形です。

その後、総武本線と成田線の新聞輸送が終わり、内房線、外房線だけになる頃には、クモユニ74からクモユニ143の2連に。ちなみにクモユニ143ー1が幕張に来た頃はそれまで在籍していたワインレッドの身延線色でした。僅かな期間ですぐにスカ色になりましたが。

房総半島だけでなく、身延線や飯田線も道路事情が良くないので最後の方まで郵便・荷物列車が残っていたのを思い出します。

私は覚えていないのですが、千葉でクモハユ74という系式の車両が走っていたのだそう。ハが付く以上、乗客用のシートや扉もあったようですが、結局、乗客用には使われなかったとか。当時、房総地区は72系も走っていて、それは幼心に覚えています。

ちなみに房総地区は昭和40年代までは気動車王国で、うちの近所の西千葉にも機関区があり、その当時の新聞輸送はキユニ11やキユニ19だったそうです。

余談ですが、幕張に在籍していたクモユニ143はその後、長野総合車両センターで職員の輸送などにあたっています。その様子を長野に仕事に行った時に、新幹線から偶然、目にする事が出来ました。

まだ頑張っている姿に、胸が熱くなりました。

◆マグナム小林(まぐなむ・こばやし) 1971年千葉県千葉市に誕生。1994年8月、立川談志に入門、2000年8月上納金未納のため破門。以降、バイオリンエンターテイナーとして活動を開始。擬音ネタや東京節にあわせたなぞかけ、バイオリンとタップダンスをあわせた芸で多くの聴衆を魅了する。落語芸術協会と東京演芸協会に所属。千葉市立千葉高校時代には野球部のキャプテンを務めた。プロレスや競馬にも造詣が深い。

▽マグナム小林さんのエッセイはこちらでもお読みいただけます
「寄席つむぎ」https://yosetumugi.com/author/mag/

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