散りゆく桜の妖しさに疫神を見るのも春なら、日本近海にマンボウたちがやってくるのも春だった

大西 昭彦 大西 昭彦

 真冬の東京で猛威をふるった新型コロナウイルスことSARS-CoV-2が、春になって大阪・神戸に襲いかかっている。感染者数の増え方はすさまじい。これは放っておけないと、非常事態宣言の前段階として「まん延防止等重点措置」が適用された。

 略称「まん防」。のほほんとした容姿のマンボウを想像させるとネット上で話題になり、「不謹慎だ。略称はつかうな」といきりたつ声もでた。口にしやすいからこそ世間に広まるという気もするけれど、それでは納得できない人もいる。

 外野が騒いでいるうちに、飲食店などは休業や時短営業にはいった。こちらは死活問題である。なんとか店じまいはさけたいが、規制にはあらがえない。

 神戸の老舗インド料理店のオーナーは古い友人で、昨年、複数ある店のひとつを閉めた。苦い選択だが、“止血”は早いほうがいいという判断だ。幼いころに両親につれられインドから来日しただけに、ダジャレを口にするほど日本語は堪能だ。以前は仕事にからめて月に1度はインドにかよっていたが、「いま考えれば、どれほど意味があったのかなぁ。なんとなくの習慣に縛られていたね」という。

 コロナ禍で暮らすうち、思考も行動も変わりつつある。だれもがすこしずつウィズ・コロナ化しているのだろう。変化に対応できなければ波にのまれる。

 神戸はインド人の集積度がきわめて高い街だ。国際的な港町ゆえのことだが、関東大震災が起きて横浜のインド人が神戸に移り住んだことも大きな要因となった。インド人コミュニティーが形成され、インド料理店はもとよりヒンズー教やジャイナ教、シーク教の寺院もできた。これらが北野町界隈に独特の景観をもたらしている。コロナ以前は観光客の姿も多く見かけたが、いまは静かな春だ。

 その水面下で感染者は増えつづけ、隔離人口もふくらんでいる。神戸のコロナ病床は逼迫しているらしい。もはや病院は戦場、と書きかけてこれはやめた。安易な比喩はよくない。既成の価値観にあてはめようとするのは危険だ。言葉は現実という生き物にレッテルを張り、檻に閉じこめる。それによってゆがめられるものも多い。

 コロナ禍の神戸を、ゆらりゆらりと水中を揺れてさまようマンボウのようにさまよってみた。人出はすこし減っただろうか。平安のむかしには、桜の花が舞い散るころに疫神が悪戯をして、流行り病をもたらすといわれた。散りゆく桜の妖しさに疫神を見るのも春なら、日本近海にマンボウたちがやってくるのもやはり春だ。“まん防”こと「まん延防止等重点措置」の適用もますます拡大している。

 ジョン・ホプキンス大学がウェブ公開している感染地図を、ときどき眺めてみる。目に見えないSARS-CoV-2が、モニターのなかで赤い斑点に姿を変えて静かに増殖していくのがわかる。ウイルスが黒い地図上に赤い警戒色として可視化され、世界をおおっていく。ふと数万年前にアフリカを旅だった人類を連想した。地球の歴史からすれば瞬く間に、私たちもこの地表をおおいつくしていったのだ。ウイルスも人類も悪意をもって蔓延(はびこ)っていったわけではない。ウイルスの繁殖で命は危険にさらされるが、戦争というよりもこれはひとつの旅かもしれない。

 海をさすらうマンボウは、ときどき海面に横たわり、丸い腹をさらすという。これを「マンボウの昼寝」というそうだ。謎の習性である。なんとも緊張感のない姿だが、その行動の理由は謎だ。“まん防”下の神戸にもきびしい緊張感はないが、それでもピリピりした空気はある。コロナとすごす2年目の春だ。

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