遺跡の真上、空港の近く…急に景色が開ける「阪神高速」 照明がほかの場所と違う理由

小嶋 あきら 小嶋 あきら

 阪神高速道路の東大阪線はほぼ全線高架道路ですが、法円坂の辺りだけ地上に降りています。1978(昭和53)年に開通して以来、ずっとそうです。実はこれ、やむにやまれない事情があって、この部分だけ平面道路になっているのです。

遺跡の真上を横切る高速道路

 阪神高速東大阪線は1966(昭和41)年の都市計画で建設が決まりました。大阪市中央区法円坂から東大阪市の長田まで、中央大通りの上に高架で建設するという計画でした。ところがその少し前、法円坂の一帯で難波宮の遺跡が発見されたのです。

 難波宮というと、古墳時代から飛鳥、奈良時代にあった宮殿で、当時はここが日本の首都でした。歴史の時間に必ず習うあの「大化の改新」も、ここで行われています。そんなものすごく重要な、日本書紀にも書かれている史跡なのですが、その存在は時の流れの中で忘れ去られてしまい、戦前の頃にはもうその場所がどこなのかさえまったくわからなくなってしまってました。

 1913(大正2)年、法円坂で奈良時代の瓦が発掘されていたのですが、当時はあまり重要なものとは思われず、また戦時中はその一帯を大日本帝国陸軍が接収していたので詳しい調査もできませんでした。戦後、軍が撤収したあとに発掘調査をしてみて、この場所こそが幻の難波宮であるということがわかったのです。

 阪神高速東大阪線は、この難波宮遺跡の真上を通るルートでした。

 最近、近鉄奈良線が平城宮跡を横切っているのがよくないということで、線路を付け替えるというニュースがありましたね。工事の完成は2060年だそうですが……。線路が開通した当時はあそこが平城宮跡だとはわからなかったらしいです。遺跡というものはほんと、どこから出るかわかりません。

 高架道路を作る場合、基礎の杭を打ち込んだ上に橋脚を建設して道路を支えます。しかしここに杭を打ち込んでしまうと、まだ発掘されていない遺跡を破壊してしまうかもしれません。そこで、この区間は橋脚を建てなくていい平面道路にしたのです。

 平面道路以外にも、この区間だけ橋脚をなくした長い吊り橋にする案もあったようですが、難波宮から北500メートルにある大阪城への見通し、景観が悪くなるということもあって、平面道路案を採ったようです。それで結果的に建設費が安く済んだともいわれます。

 また、前後の高架道路から平面道路へのスロープ部分の橋脚も、通常の間隔が30メートルのところを10メートルに詰めて、重さを分散させて基礎の杭が要らない構造になっています。

都市高速の景観を作ったオレンジ色のナトリウム灯

 全国の都市高速で初めて道路の照明にナトリウム灯を採用したのは、実は阪神高速でした。

 ナトリウム灯はオレンジ色の光で、ちょっと前まで高速道路のトンネルはみんなこれでしたね。あえてオレンジ色を採用しているのは、霧や煤煙など見通しの悪いところでも、白に比べて遠くまで光が届くという性質があるからです。しかし最近は車の排気ガスがクリーンになったので、トンネルも演色性のいい(色がしっかり見える)白色の照明になってます。

 阪神高速のナトリウム灯もトンネルなどから順次Hf蛍光灯、そしてLEDへと変わっていって、現在ではあまり見られなくなりましたが、その当時は独特の「ハイウェイの景観」を作っていました。

 整然と並んだ照明柱から、双葉のように左右に突き出したオレンジ色のナトリウム灯。1968(昭和43)年、青江三奈さんの「霧のハイウェー」という歌はこの光景をモチーフにしていたそうです。筆者はリアルタイムに知らないですが。

 しかしこの法円坂一帯では、見通しや景観に配慮して、照明柱を建てずに照明を欄干に埋め込む「高欄照明」という方式が採用されています。

 この高欄照明、阪神高速ではもう一カ所、池田線でも使われています。それは大阪国際空港の東側、飛行機の進入ルートと交差する部分です。逆風の時を除いてですが、着陸する飛行機が阪神高速をかすめるように(というとちょっと大袈裟かな)降りてくる様は、実際に走っていて出くわすとなかなか迫力があります。なんとなく飛行機とクルマの交差点みたいな、ちょっとシュールな光景です。

 そう、それでこの区間は飛行機の邪魔をしないように、照明柱を建てていないのです。

 東大阪線の法円坂と池田線の空港付近。それぞれ理由は違うけれど、急に照明が変わって景色が開ける感じはなんとなく似ているかもしれません。阪神高速を走る機会があれば、気にして見てみるとおもしろいのではないでしょうか。

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