実際に被災地で悲惨な経験をしたわけではない私が、震災について書くことには躊躇があります。けれど、毎週連載をしている本稿で、今日このとき、震災について書かずして、一体何を書くんだという思いもあり、これまで被災者の方からうかがったお話も踏まえて、書かせていただきたいと思います。
東日本大震災で亡くなられた方は、1万5899人。行方不明者は2526人。避難生活などで亡くなった方(震災関連死)は、3767人。「関連死」を含めた死者と行方不明者は2万2200人にのぼります。(2021年3月1日。警察庁・復興庁)
そのお一人おひとりに、かけがえのない人生があり、大切な方々がいました。突然、津波に襲われた恐怖、命を奪われた無念、残された方の悲しみ、悔やんでも悔やみきれないという思い。明日も当たり前に続いていく、と思っていた日常が、突然に断ち切られた悲劇。
「政府の復興予算は10年で約38兆円。災害公営住宅3万戸、防災集団移転1万8千戸、復興道路・支援道路は、今年度末で85%が工事終了」
されど、どれだけ年月が経とうとも、どれだけ「復興」が進められようとも、多くの方が、心に負った深い深い傷は、消えようがありません。「愛する家族に戻ってきてほしい。」「何年経とうが、区切りにはならない。」「復興が進んで、済んだことのようにされていくのが悲しい。」
震災の年、私は厚生労働省で高齢者福祉を担当していました。宮城県の高齢者施設では、建物は残っていましたが、中に入ると、根こそぎ、津波に押し流されてしまったことが一目で分かりました。職員の方たちは、ご入所者を、なんとか車に乗せて避難させようと奮闘され、亡くなられました。
陸前高田、釜石、石巻、閖上、東松島、女川…すべてが押し流され、大きな建物が横倒しで転がり、瓦礫が積みあがる光景に、言葉を失いました。仮設住宅では、ご家族を亡くした女性が「生きる希望なんて何もない」と泣いておられました。
未曽有の事態に危機感が募り、その後、国会で仕事をすることとなりましたが、「被災地の復興・復旧に全力を尽くす」というフレーズを聞くたびに、被災者の方々が、本当に必要とし、望んでいることはなんだろうか? 国と被災地との間に温度差・乖離があるようにも感じました。震災復興担当の大臣政務官としても、被災地にうかがいました。仮設住宅の集会所にお越しくださった方々は、やり場のない思いを吐露していらっしゃいました。
役所のときからずっと、いつもいつも、己の無力を痛感していました。
「災害に、『絶対に安全』ということはない。」、「家族を救えなかった。朝、送り出して、それっきりだった。」、「もう会えないなんて。もっとちゃんと話をしておけばよかった」、「避難場所とされていたところに逃げたけれど、津波が来てしまった。」、「近所の人に声をかけられて、避難して助かった」、「原発で避難しているが、住んでいた場所に戻りたい(注:原発避難者は3万6千人、2021年2月8日)」
災害に『想定外』は無い
被災者の方々から、教えていただくこと、そして、日本全体で、今後の備えとして考えていくべきことが、たくさんあります。人は、避難しないといけないと分かっていても、実際はなかなか踏み切れず、持ち出す貴重品を探したりして時間を使ってしまうそうです。何よりもまず、命を守る選択をすること、声をかけ合うなど日頃の地域のつながりが大切になってきます。
「災害に『想定外』は無い。」
そして、それは、新型コロナウイルス感染症に対峙する場合も同じことが言えます。新興感染症の流行は、当然想定されていたにも関わらず、十分な備えはできていませんでした。心構え、行政と医療介護のデジタル化、病院・病床の再編、医療情報等のデータベース化、ワクチン開発――「最悪の事態を想定して、備えをする」ことは、危機管理の要諦のはずですが、実際はそれほど容易なことではありません。なににせよ、あらかじめ「備えた」ことが、結果として、使われないままのことはあり、そうしたものへの支出は、財政当局や世論においても、認められにくいという限界もありました。
けれど、私たちは、学ぶことができます。
2011年3月11日、大きな地震と津波が発生し、甚大な被害が出たこと。多くの方が悲しみと苦しみを背負い続けていること。このことを、ずっと忘れずにいる。その悲しみを少しでも和らげ、希望を持っていただくために、何ができるかを一人ひとりが考える。
そして、もしものときは、どう行動するかを、被災者の方々の経験から教わり、家庭や地域でしっかりと考えておく。
震災後を生きる者として、できることはたくさんあるように思います。今日がまた思いを馳せる日になるように。