三陸鉄道は「何度でも新たな出発をする」今春退職の“1期生” 共に歩んだ38年、後輩に託す未来 #あれから私は

浅井 佳穂 浅井 佳穂

 東日本大震災から10年がたちました。震災で大きな被害を受けたのが、岩手県の太平洋沿岸を走る三陸鉄道です。三陸鉄道の旅客営業部副部長の冨手淳さん(60)は「この10年は早かった」と語ります。3月で退職する冨手さんは、震災被害と復旧、リアス線としての開通、台風被害や新型コロナウイルスの感染拡大など、めまぐるしい10年間の出来事を振り返りながら「何度でも新たな出発をして、時代にあった鉄道にしてほしい」と後輩に今後を託します。

 三陸鉄道は久慈(岩手県久慈市)―宮古(岩手県宮古市)駅間の北リアス線と、釜石(岩手県釜石市)―盛(岩手県大船渡市)駅間の南リアス線を有する第三セクターの鉄道として1984年4月に開業しました。冨手さんは、その前年に三陸鉄道の一期生として入社しました。

 「2011年は3月9日に(三陸沖を震源とするマグニチュード7・3の)大きな地震がありました。大きい地震がきたので、しばらくは(強い地震は)こないだろうと思っていました。まさか、とんでもない大震災がやってくるとは思いませんでした」

 そして3月11日-。

 「当時は旅客サービス部長として宮古駅にある三陸鉄道の本社2階にいました」

 宮古駅の乗客と一般社員は近くの小学校に避難。冨手さんら幹部社員は、宮古駅構内に止まっていた車両を対策本部として状況の把握に努めました。

 「今もですが、非常事態が起きたらどうするかをいつも考えながら動いています。震災のときも、それなりの心づもりをしていました」

 三陸鉄道は高架を走るなど、過去の経験から津波対策が施されていました。乗客や運転士の人的被害はありませんでした。しかし、北リアス線島越駅の駅舎が流失するなど大きな被害を受けました。

 三陸鉄道は3月16日に北リアス線の久慈―陸中野田(岩手県野田村)駅間をはじめ、順次復旧。震災3年後の2014年4月には、南北のリアス線とも全線で運転再開しました。

 震災前、南北リアス線の間の宮古―釜石駅間(55・4キロ)は、JR山田線が走っていました。三陸鉄道の車両も乗り入れてましたが、路線としては分断されていました。震災後、山田線はバス高速輸送システム(BRT)での仮復旧も取り沙汰されましたが、三陸鉄道への移管が決定。2019年、久慈―盛が一本の三陸鉄道リアス線としてスタートしました。全長163キロは全国の第三セクター鉄道では随一の長さです。

 「リアス線の開業は大きな出来事でした。路線が予想もしていなかった距離に伸びました」

 2019年3月にリアス線として開通して、開業ブームでたくさんの人が来ました。さらに観光の団体客もさばき切れないくらい来たといいます。ところが-。

 「『今年は久々に黒字になるだろう』と思っていたところに台風がやってきました」

 2019年10月に台風19号が襲来。岩手県にも大きな爪痕を残しました。

 「うちの路線が台風でやられるなんて思ってもみなかったです。考えられないような事態です。三陸鉄道はトンネルが多く、比較的風水害には耐えられる鉄道だったんですが、至るところで土砂崩れが起きたり、岩がころがってきたりしてとんでもないことになりました」

 三陸鉄道は、7割の区間で運休。全線での運転再開には5カ月を要しました。

 「復旧したら今度はコロナで(経営に)打撃を受けています。『Go To トラベル』を利用して三陸鉄道を訪れる方もいましたが、1月に首都圏や関西で緊急事態宣言が再発令されると団体客はいなくなってしまいました」

 冨手さんは3月末で三陸鉄道を定年退職します。

 「震災からの復旧時、リアス線がつながったとき、台風からの復旧時と、何度も『新たな出発』と言ってきました。コロナ後も含め、何度でも『新たな出発』をしてほしいと思います。地域密着で地域に愛される鉄道として残していってほしいです。少子化、人口減をどう乗り切るか。後輩たちには時代にあった鉄道会社にしていったもらいたいです」

 冨手さんの三陸鉄道社員としての歩みは、まもなく終着駅を迎えます。震災や台風などの困難に鉄道マンがどう立ち向かったかは、未来の人にも役立ちそうです。

 「今後はひとまず、生まれ育った盛岡市に戻ってゆっくりします。これまでも雑誌に原稿を書く機会があったので、今後も時折、震災の経験などを書くかもしれません」

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