誰も死なせない!…「やさしい鬼退治」に列島が共感した理由 大災害やコロナ禍…失い続けた果てに現れた「鬼滅の刃」

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しかし、先行作品と違い、サバイバル状況で誰かを切り捨てるという決断を、『鬼滅の刃』の、少なくとも主要登場人物は容認しない。その代表例といえるのが『無限列車編』作中で発せられる炎柱・煉獄杏寿郎のセリフ「俺は俺の責務を全うする!!ここにいる者は誰も死なせない!!」である。作品内において弱者の組織である鬼殺隊内の「強者」である立場の隊員(「柱」)たちは、自らの「責務」を「弱き人を助けることは強く生まれた者の責務」ととらえ、過酷な状況の中でも自らの命を賭して、後輩の隊員たちや人びとを守り導こうとする。強者として傍若無人にふるまう鬼と対照的に、この「強者の責務」を貫きぬこうとする隊員たちの姿が人びとの胸を打つ。

ここで注意したいのは、この「強者の責務」は単に弱者への哀れみから来ているものだけでない、ということである。そのことは、杏寿郎が後輩である炭治郎たちに語りかけた「君たちが鬼殺隊を支える柱となるのだ。俺は信じる。」という言葉によく表れている。

鬼殺隊および『鬼滅の刃』を貫き通している思想の一つに、この杏寿郎のセリフに代表される、未来を担う「弱者」たちへの信頼がある。自らが目的を達成できなくとも、誰かが自分たちの想いをつないでいき、「鬼滅」を完遂してくれる。その確信が、鬼殺隊を支える。『鬼滅の刃』コミックス最終巻(23巻)発売日である2020年12月4日の全国紙五紙に掲載された広告の「夜は明ける。想いは不滅。」というキャッチフレーズには、その思想がよく示されている。だからこそ、鬼殺隊の「強者」たちは自らの「責務」として弱者を守るのである。

一方で、「弱者」への視点は、人側だけでなく、強者側の鬼にも適用される。彼らもまた、鬼舞辻無惨によって鬼に変えられるまでは、社会的弱者として生きざるを得なかった人びとであることが作中、鬼の過去の記憶として描かれる。なぜ彼らは鬼にならざるを得なかったのか。その背景が描かれることで、憎むべき存在の鬼もまた同情すべき存在として読者(視聴者)の前に現れる。

この鬼たちに対し、鬼殺隊の隊員たちは厳しい態度で臨むが、しかし、主人公・炭治郎は慈しみの心で応対する。

「鬼は人間だったんだから。俺と同じ人間だったんだから。足をどけてください。」

「醜い化け物なんかじゃない。鬼は虚しい生き物だ。悲しい生き物だ。」

ある鬼が首を落とされ消えゆくときに炭治郎は、鬼の残がいを踏みつけにする鬼殺隊の隊員のその行為を止めようと、声をふりしぼる。このような、炭治郎の「やさしさ」は作中で一貫されており、先行作品にあまり見られない『鬼滅の刃』ならではの特徴となっている。『鬼滅の刃』のマンガ単行本のプロモーションにおいて、集英社は「日本一慈(やさ)しい鬼退治」というキャッチフレーズを用いているが、このフレーズは、他の作品にはない、『鬼滅の刃』の特徴をうまく表現した言葉である。

「鬼滅の思想」がなぜ受け入れられたのか

ここまで、先行作品も踏まえつつ『鬼滅の刃』の特徴といえる点を取り上げてきた。人と鬼との過酷な戦いを描きながらも、コミックスを取り扱う出版社側が「慈(やさ)しい」と形容するような作品の雰囲気が本作にはあるが、それは「強者の責務」「未来への信頼」「弱者への慈しみ」といった視点がこの作品にあふれているからだろう。『無限列車編』やコミックス最終巻発売時のSNSの反応などを見ても、観客や読者は、これら作品の端々で描かれるメッセージをすくい取り、深く共感しているように思われる。

では、なぜ『鬼滅の刃』にあふれる思想――「鬼滅の思想」に私たちはひかれるのだろうか。このことは、大災害や新型コロナウイルスの感染拡大などによって、私たちが多くのものを奪われる経験をしてきたことと無縁ではないだろう。

バブル崩壊以降の長い不況下で格差拡大の容認や自己責任論が高まってくる中、社会で受け入れられた物語は、過酷な生存競争の中で自らの才覚や決断によってその困難を乗り来ようとする主人公たちだった。そして、それらの作品では、先に挙げた『進撃の巨人』がそうであるように、ときに他者を切り捨てる「現実的判断」を容認する描写が作品のリアリティを高める要素として機能してきた。

しかし一方で、私たちは、近年あまりに多くのものを失う経験をしてきた。それをもたらしたのは、自然という、人の及ばない圧倒的強者であった。近年、私たちの国が直面してきた、スーパー台風や巨大地震、豪雨災害。そして、2020年に世界に蔓延し、現在を生きる私たちの誰もが影響を受けている新型コロナウイルス――人知を尽くしても及ばない存在に向かい合ったとき、結局のところ、弱者に過ぎない私たちはどう対応すべきなのか。どういう態度で生きるべきなのか。人の抗えない「自然」という強者と対峙せざるを得ない体験をしたことで、これまでになく私たちはそれらの問題意識を持つようになっている。そして、この状況下では誰かを切り捨てても、問題が何も解決しないことを私たちは理解するようになりつつある。

『鬼滅の刃』は、現在の私たちが求めている答えの一端を物語の中で示したのではないか、そして、だからこそ一大ムーブメントをひきおこしたのではないかと筆者は考えている。『鬼滅の刃』作中で描かれているその答えは、これまでも触れてきたように、

(1)強者が弱者を守る「責務」を果たす
(2)「未来」の可能性に目をやり、そのために、今できることをする
(3)弱者を切り捨てる(考慮しない)のでなく、「慈しみ」の視線で彼らに寄り添う

――という、言葉にすれば、きわめてありきたりな「正論」である。「楽観論」「理想論」ともいえるかもしれない。実際、その想いだけで誰かを救いきれないことも『鬼滅の刃』は描いている。それでも、想いをつなぎ、弱者として人が連帯していくことで「鬼滅」をなしとげる様を『鬼滅の刃』は描く。過酷な状況下での「やさしい物語」。新型コロナウイルスという自然から生まれた「強者」に晒されている私たちにとって、『鬼滅の刃』は希望の物語である。

   ◇   ◇

■谷村要(たにむら・かなめ) 大手前大学メディア・芸術学部准教授。専門は情報社会学・サブカルチャー研究。特にネット上の表現活動、アニメの社会現象について詳しい。

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