筒美京平さん逝去 「筒美音楽」の根幹に洋楽ダンスミュージック…先取精神が生み出した新時代の歌謡曲、J-POP

中将 タカノリ 中将 タカノリ

10月7日、作曲家、編曲家の筒美京平さんが亡くなった。享年80歳だった。

筒美さんは1966年のデビュー以来、手がけた曲のうち39曲がチャート1位200曲強がチャート10位以内にランクインし、売上枚数ランキング歴代1位に君臨するという大作曲家。いしだあゆみさん、尾崎紀世彦さんにはじまり郷ひろみさん、岩崎宏美さん、近藤真彦さんなど筒美さんの楽曲によって世に出たり、地位を築いた人は数多い。

訃報をうけてあらためて筒美さんが手がけた、歌謡曲史、J-POPシーン、または個々の歌手のその後の活動にきわめて大きな影響を与えた曲をリストアップしたが、当然ながらそれは膨大な数にのぼった。

中将タカノリ特撰 筒美京平名曲リスト

「ブルー・ライト・ヨコハマ」(1968年 いしだあゆみ)
「スワンの涙」(1968年 オックス)
「サザエさん」(1969年 宇野ゆう子)
「また逢う日まで」(1971年 尾崎紀世彦)
「さらば恋人」(1971年 堺正章)
「真夏の出来事」(1971年 平山三紀)
「男の子女の子」(1972年 郷ひろみ)
「よろしく哀愁」(1974年 郷ひろみ)
「ロマンス」(1975年 岩崎宏美)
「木綿のハンカチーフ」(1975年 太田裕美)
「飛んでイスタンブール」(1978年 庄野真代)
「魅せられて」(1979年 ジュディ・オング)
「セクシャルバイオレットNo.1」(1979年 桑名正博)
「ギンギラギンにさりげなく」(1981年 近藤真彦)
「センチメンタル・ジャーニー」(1982年 松本伊代)
「ドラマティック・レイン」(1982年 稲垣潤一)
「Romanticが止まらない」(1985年 C-C-B)
「なんてったってアイドル」(1985年 小泉今日子)
「1986年のマリリン」(1986年 本田美奈子)
「仮面舞踏会」(1986年 少年隊)
「抱きしめてTONIGHT」(1988年 田原俊彦)
…など

筒美さんは売れるものを大量に作る職業作家に徹したと言われることが多いが、けっしてそれだけの人ではない。筒美さんの音楽性の根幹は学生時代にジャズピアニスとして活躍したことからも分かる通り、1940年代以降の洋楽。とりわけジャズR&Bソウルなどダンスミュージックへの興味、造詣が非常に深く、作曲家、編曲家としてもそのセンスを大いに発揮し、従来の「ヨナ抜き音階」や表拍のリズム感にとらわれた歌謡曲を駆逐した革新的な作家だった。

「セクシー・バス・ストップ」(1976年 浅野ゆう子 等)なんて当時アメリカで流行していたソウル、ディスコミュージックのそのまんま和風アレンジだし、「恋の弱味」(1976年 郷ひろみ)、「恋のハッスル・ジェット」(1976年 シェリー)、「日曜日はストレンジャー」(1979年 石野真子)、「泣かないぞェ」(1995年 鈴木蘭々)あたりも歌謡曲という枠内に無理やりソウルみをぶち込んだ感じで面白い。

また「グッド・ラック」(1978年 野口五郎)のように近年見直されているシティーポップに通じる音楽性をいち早く歌謡曲に持ち込んだのも筒美さんならではの先取精神だろう。

なにも当時の歌謡曲の進化が全て筒美さんによるものだとは言わないが、筒美さんはその職業作家としての役割をまっとうしながらも確実にアーティスティックな感覚で音楽通にも聴きごたえのある新時代の歌謡曲を創りだしていたのだ。

今も街に筒美さんの音楽が流れない日は無いし、アンダーグラウンドでは筒美京平さんの楽曲ばかりをかけて踊るクラブイベントなんてものまで存在する。プレイヤーではない純粋な作曲家で、ここまで幅広い音楽ファンに愛された人は他にいないだろう。最晩年までお仕事を続けられ、80歳までご存命だったのだからその死は大往生と言っていいかもしれないが、つくづく惜しい人を亡くしたものだと思う。

筒美さん、これまで素晴らしい音楽をありがとうございました。

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