「異邦人」から40年…久保田早紀はなぜ音楽宣教師・久米小百合になったのか

あの人~ネクストステージ

北村 泰介 北村 泰介
 1979年に発売されたシングル「異邦人」のジャケット
 1979年に発売されたシングル「異邦人」のジャケット

 昭和の大ヒット曲「異邦人」は平成が終わろうとする今も時代を超えて人々の心に刻まれている。音楽宣教師・久米小百合は当時、「久保田早紀」という名のシンガー・ソングライターとしてこの名曲を生み出し、引退後も30年以上にわたって教会で賛美歌を歌っている。「異邦人」から40周年の節目に久米を取材し、ターニングポイントや近況を聞いた。(文中敬称略)

 幼い頃からピアノを学び、「ガロ」のコピーバンドに参加した中学生時代から作曲を始め、短大在学中にオーディションを受けた。デビュー曲「異邦人」は当初「白い朝」というタイトル。シルクロードをテーマにした大手家電メーカーのCМ曲となり、異国情緒あふれる歌詞とし、山口百恵らを手掛けたプロデューサー・酒井政利の発案で改題した。

 子供たちが空に向かって両手を広げるという冒頭の歌詞のモチーフは中央アジアではなく、地元の八王子に帰る中央線から見た風景だった。「東京の郊外にはまだ空き地があって、子供たちが暗くなるまで遊んでいました」。1979年10月にリリースされると、12月からTBS系「ザ・ベストテン」で正月休みを挟んで3週連続1位となり、翌年にかけて140万枚を超える大ヒットとなった。

 激動の渦中で違和感もあった。「ブラウン管の中に自分がいて、コンサートでは雲の上の存在だったアーティストさんと楽屋が隣。ここに自分がいていいのだろうかと」。次のヒット曲を求められる重圧にも苦しんだ。

 「異邦人の久保田早紀と本名の久保田小百合が乖離(かいり)していた。そこから洗礼につながりました」。80年は2枚のアルバムを発表しながらプロテスタントの教会に通い、賛美歌に救われた。81年に洗礼を受けた。「古い自分が死んで新しい自分で生きる」という再出発だった。

 クリスチャンの先輩ミュージシャンにも背中を押された。「ティッシュペーパーみたいに消費される曲をいつまでも作る必要ないじゃん」。細野晴臣らと名作を残し、後に牧師となって音楽活動を続ける小坂忠の言葉が響いた。6枚のアルバムを残して84年に「久保田早紀」を引退。翌年、俳優・久米明の次男でキーボード奏者の久米大作と結婚して「久米小百合」となった。

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