回らない寿司屋では、職人と客を隔てるのはカウンターだけ。店員どうしの会話が客に筒抜けになる環境だと、業務連絡などで客に聞かせたくない言葉がある。それは隠し事ではなく、客への配慮だという。店じまいをして隠居中の元寿司職人・K氏に聞いた。
うちのヤマは天然だよ
ヤマとは笹、あるいは葉蘭(ばらん)のこと。スーパーで寿司を買うと、寿司と「がり」の間を、ギザギザのビニールシートで仕切ってある。あれを「葉蘭」とか、カタカナで「バラン」と書く。本物のバランはビニールではなく、天然の熊笹を使う。
「山で採れるから、ヤマと呼ばれています」
敢えて「ビニールのほうが安いでしょ」と話を振ると、
「そんなことは、プライドが許さない」と語気を強めて否定された。
「ヤマ」は、「ネタ切れ」という意味でも使われることがある。
「山には海の生物がいないでしょ」
なるほど。魚介を扱う寿司屋らしい隠語だ。
「がり」が出たついでに聞いてみた。薄切りにして甘酢で漬けたショウガを、なぜ「がり」と呼ぶのか。
「噛んだ歯ごたえがガリガリするから。がりの役割は魚の臭みをとる口直しと、殺菌作用です」
さらに、軍艦巻きに醤油をつけるヘラの役割を担うこともあるという、地味だが重要なポジションを任されているのだ。
殺菌作用があるものといえば、「わさび」を忘れてはいけない。わさびは「なみだ」というそうだ。理由はお察しのとおり、鼻にツンと抜けて涙が出てくるから。
寿司屋で「あにき」といえば
「あにき」とは、前日に仕入れた魚のこと。
「味を良くするために、魚を1日寝かせることがあります」
客からすれば「前日仕入れた魚」と聞いたら、「鮮度が落ちているんじゃないの」というイメージから、あんまりいい気持ちがしない。そのため「あにき」と言い換えて、客に配慮している。
店員どうしで「これ、あにきか?」「それは、おとうとです」なんて会話をしていたら、どっちの魚を先に出すかを確認し合っているわけだ。「おとうと」というのが、その日仕入れた魚のこと。
最後にいただくお茶のことを「あがり」というが、これには「最後のもの」という意味がある。双六(すごろく)のゴール、演芸の最後のお囃子も「あがり」と呼ばれ、元々は花柳界から発祥した言葉のようだ。
そしてお店を出るとき、たいてい「お愛想」とか「お勘定」といっていないだろうか。店の主人から「お愛想づかしでしょうが、お勘定をお願いします」というのが本筋で、客からいうのは下品とされている。
言葉遊びが流行った江戸時代、江戸っ子たちは競って新しい言葉を生み出していった。寿司飯のことを「しゃり」と呼んだのも、そんな言葉遊びからきている。米粒の形をお釈迦様の喉仏に例えて、喉仏はお釈迦様の遺骨、すなわち仏舎利から「しゃり」というわけだ。
地域によっては、酒粕を数年熟成させた赤酢を使うことから、赤い色のついた「赤しゃり」もある。
独特な言葉や言い回しが生まれた背景には、客に不快な思いをさせない配慮とか、仲間どうしだけで意味が通る言葉を使うことで結束を強めたり、粋(いき)を気取ったりしていたのかもしれない。