7年間ひきこもりだった僕が、また働き始められた理由

広畑 千春 広畑 千春

 さまざまな事件を機に、ひきこもりの問題に注目が集まっている。だが、長期間ひきこもったとしても、きっかけと、周囲のサポートを得て社会に戻り、働き始める人も少なくない。パワハラなどで仕事を辞め、7年間ひきこもったのち、精神病院への入院を経て、今は就労継続支援A型事業所で働くシンさん(39)もその一人だ。

 シンさんは兵庫県内で、両親と3人で暮らす。北海道で生まれ育ち、専門学校ではコンピューターグラフィックスを専攻。穏やかな性格で「ごく普通に、暮らしていた」という。20歳のとき、大阪で仕事を始めた父と一緒に兵庫へ移り、印刷会社で働き始めた。

 職場では必死に働いたが、上司らはシンさんの仕事ぶりや振る舞いで気に食わないことがあれば、にらみつけ、机を叩いたり物を蹴ったりした。シンさんは耐え、飲み会にも付き合った。「いつか、仲良くなれると思って、僕なりに頑張ってみたんですけどね…。でも、ダメでした。ずっと同じだった」。5年後、体調を崩して退職した。

 その後、知人のつてで染色工の仕事に就いたが、1年ほどしたころ、セミが鳴くような音が耳元で鳴り続ける幻聴が聞こえるようになった。仕事で使っていた有機溶剤の影響もあったのかもしれない。夜も眠れず、体も動かなくなった。

 そこからは家にひきこもった。昼前ぐらいに起きて、母親が作って部屋の前に置いてくれた食事を部屋で食べる。持病で足を動かす必要があり、1日1~2時間家の近くを散歩する以外は自室にこもり、テレビを見たり、ネットをしたりして過ごした。

 「何かしようとしても、どうしても気力が湧かない。思い付いたことがあっても、すぐ『自分には、できない』としか思えなかった」。最初の職場のトラウマも根深かった。両親はシンさんを責めることはなかった。ただ、幻聴などを訴えても、精神疾患の知識がなかったのか、まさかそうとは思わなかったのか、「休んだら」と言うだけだった。

「何もできず、いい年をして親に迷惑をかけている自分が嫌で、毎日苦しく、ずっと『死にたい』と思っていた」とシンさん。ベルトや服の袖を首にかけて死のうとしたが、できなかった。そのうちに足の状態が悪化し、外出も難しくなった。シンさんは自ら119番し、救急隊員に「安楽死用の薬をください」とすがった。

救急から連絡を受けた警察官に説得され、シンさんは初めて精神科を受診。「統合失調症」と診断された。面談で逃げだしてしまい、入院することになったが「全く自由がなく、苦しいだけだった」。3カ月後、退院許可が下り病院を出た瞬間、「世の中ってこんなに広かったんだ」という言いようのない解放感と「また、社会に戻って来られた」という思いに満たされ、失っていた「働きたい」という気持ちがどこからか湧き上がってきたという。

 シンさんは求人雑誌で見つけた皿洗いのアルバイトをしつつ、ハローワークに通い、1年ほど前、パソコン入力業務なども手掛ける就労継続支援A型事業所に就職した。ホームページの作成方法なども覚え、1日4時間、週5日、ライティングなどをして約8万円の賃金を得て働く。服薬も続けている。

 「働いている方が病気のことを忘れられる」とシンさん。「僕にとっては、外に出るきっかけは入院だった。親も『お帰り』と言ってくれた。今の職場では一方的に責められることもないし、体調を崩しても温かく迎えてくれる。世の中は悪い人ばかりじゃないと思えた」と、ぽつりぽつりと話し、「部屋にずっといたあの時期は、本当にもったいないな、と思います」と振り返る。そして「今はまだ体調や生活のリズムも不安だし、失敗して時間を無駄に費やすのが怖いけど、いつかコンピューターグラフィックの仕事ができたら」と夢を語る。

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