最近“混浴問題”が国会でも話題になった。女児を狙った盗撮被害の問題もあり、公衆浴場での「おおむね10歳以上」の混浴を制限する厚生労働省要領の見直しが議論されているという。だが歴史をさかのぼると、寛政の改革(1787~93年)以前の銭湯は、男女混浴が当たり前。幕末に日本にやってきたペリー提督は、男女混浴を見て「日本人は、道徳心の高い国民性であると聞いていたが、淫らな部分もあるのか」と日記に記しているとか。そこで当時の“銭湯事情”を調べてみた。
東京銭湯組合によると「江戸で初めて銭湯ができたのは1591(天正19)年の夏で、伊勢の与一という人が銭瓶橋(ぜにがめばし)、現在の常盤橋の近くで営業を始めた」とのこと。当時は蒸し風呂で、男は“ふんどし”を、女は腰巻きを付けて入ったという。
「江戸っ子は風呂好きだった」という説がある。というのも、当時から日本の気候は湿度が高く、肌はいつもベタベタ状態。その上、舗装されていない道路事情もあって砂ぼこりにまみれた体は日常茶飯事だった。そんな事情から当時の人々は朝晩風呂に入るのを日課としていたようだ。
ところが火事が多かった江戸の庶民は、家庭で風呂をたくことを禁止されており、風呂といえば銭湯に入ることとなる。料金は8文(現在の150円)ぐらいだったといい、決して安くはなかった。
銭湯が始まって間もなく、衣服の整理をしたり、垢を落としたり、茶菓子の接待をする“湯女(ゆな)”を置く湯女風呂が流行した。ところが、この湯女が売春することもあったため1657(明歴3)年に禁止となる。その後の銭湯の座敷は、茶菓子の接待のほか、碁・将棋などの娯楽道具が置かれ、庶民の娯楽室として人気を呼んだ。現代のスーパー銭湯の様なものだ。
当時は石けんがなく、女性は顔も体も米ぬかで洗っていた。だが、上流階級の“セレブ”な奥さまに一番人気の洗顔料は「鶯(ウグイス)の糞」だったとか。ちなみに、京都、大阪などの関西地方では、五右衛門風呂が人気だったという。