日本における映画やジャズ、コーヒー、ゴルフ、マラソンなどの発祥地として知られる神戸。言及されることは少ないが、実はもうひとつ、非常に重要な服飾品の発祥の地でもある。それはビーチサンダル(ビーサン)。しかも、1952年に世界で初めてビーサンを作ったのが、当時、神戸・長田に本社があった内外ゴム(現・明石市)なのだという。昭和期はビーサンが盛んに作られ、活気にあふれた神戸だったが、95年の阪神・淡路大震災で多くの工場が被災。生産拠点も海外に移り、いつしか日本製のビーサンは姿を消した。そんな一度は失われた「神戸発祥」の「日本製」ビーサンの復権を掲げ、奔走している男性がいる。2019年夏には、念願だった天然ゴム製ビーサンの販売も始めるという。
東京で日本製ビーサン専門店「九十九(TSUKUMO)」を営む中島広行さん(46)。2015年に独立するまでは、神奈川県葉山町の老舗ビーサン店「げんべい商店」の店主として鳴らした。名だたる企業や団体とコラボするなど、ビーサン界に新しい風を吹き込んできた風雲児である。
1998年にこの道に入った中島さんがずっと不満だったのは、国内に生産工場がない故の身動きの取りにくさだ。長くフィリピンの工場で受注生産していたが、日本向けは規格が異なるため注文は年に1回だけ。売れて品薄になっても追加できず、コラボやノベルティ依頼への対応も難しかった。台湾の工場に切り替えてもやはりうまく回らず、困り果てていた2006年頃に紹介されたのが、「兵神化学」(兵庫県稲美町)の羽戸修作さん(61)だった。
兵神化学の前身工場はもともと長田にあり、昭和後期に現在地に移転。ビーサンの製造に長く携わっていたが、阪神・淡路の影響で仕入れ先も卸先も失ってしまった。
「スリッパの製造などで10年ほどなんとかしのいできたけど、いよいよ本当にもうダメだと。面識のない中島さんから『ビーサンを作ってもらえないか』と思い掛けない電話があったのは、そんなタイミングだった。もう嬉しくて嬉しくて。空から蜘蛛の糸が下りてきたようだった」と羽戸さんは振り返る。
2人は長田のある工場の協力を取り付けることに成功し、かつてのように「台」と「鼻緒」を仕入れてビーサンの製造を再開。中島さんからのオーダーは、当時としては常識破りのカラーバリエーション、19色12サイズ展開だったが、羽戸さんはその依頼に全力で応え、日本製ビーサンがついに復活した。国内唯一の現役ビーサン製造者として息を吹き返した羽戸さんは、その後もビーサンを量産し、中島さんの快進撃をサポートしている。