お花見を広めたのは“暴れん坊将軍”だった?上流階級の遊びから庶民の娯楽への変遷

お花見が庶民にも広がったのは江戸時代以降だった(yosim/stock.adobe.com)
お花見が庶民にも広がったのは江戸時代以降だった(yosim/stock.adobe.com)

 全国各地に桜の便りがやってきている。日本で「花見」といえば一般的に桜の花見のことを意味し、新元号「令和」の出典となった日本最古の歌集「万葉集」には桜の花をめでる数多くの歌が存在。平安時代にも、詩歌の対象として多くの歌人に取り上げられている。そんな「花見」を今でこそ老若男女が楽しんでいるが、きっかけを作ったのは“暴れん坊将軍”としても有名な徳川八代将軍・吉宗だったという。

 平安時代は“貴族の春の遊び”として桜の花見が最盛期を迎え、朝廷や貴族等の逸話が数多く残されている。奈良・吉野山は西行の歌にも詠まれ、同所から桜が移された京都・嵐山も有名になった。これ以後、京の都を中心に全国的に桜の花見が広がっていったとされ、豊臣秀吉による「吉野の花見」(1594年=文禄3年)と「醍醐の花見」(1598年=慶長3年)は余りにも有名だ。

 このように長い間、桜の花見は朝廷や天下人、そして貴族たちなど上流階級の人たちのお遊びであった。これが庶民にまで広がったのは、江戸時代以降のこと。徳川吉宗が隅田川土手などに桜を植え、江戸の庶民に花見を奨励したのが始まりだとされる。

 これを機に都市部だけでなく、全国農村部まで広く伝わった“お花見文化”。当時から庶民の花見は、桜の花の下で弁当を広げて歌や踊りを楽しんだと伝えられており、その様子は現在とさほど変わらない。桜色・白・緑の花見団子も江戸時代から伝わったものだという。

 ところで日本の桜といえば「ソメイヨシノ」ということになるのだが、いったいなぜだろうか?この品種は江戸時代から明治初期にかけて、江戸の染井(ソメイ)村の植木職人たちによる品種改良で生まれ、当初は「吉野桜」の名で売り出された。その後「ソメイヨシノ」と命名され、全国各地で植樹されて現在に至っている。現在、桜の開花宣言も気象台や観測所が定めた「ソメイヨシノ」の標本木の開花によるものだ。

 現在、東京都内で花見と言えば「上野恩賜公園の桜」「新宿御苑の桜」「目黒川沿いの桜」が代表的だ。上野恩賜公園の管理事務所によると「奈良の吉野から800本の桜、ソメイヨシノなど50種を江戸時代に移植した。都民の憩いの広場として、例年400万人の人で賑わいを見せている」という。ここの桜の並木トンネルは圧巻で、特に袴腰(はかまごし)から噴水池通りまでは有名な絶景スポット。それこそ江戸時代から、訪れる人を魅了してやまない。

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