「最近、コーヒーが飲めなくなったの」「少し痩せた気がする」…。
49歳の同級生Hさんが、深刻な表情で語り出したとき、思わず身構えました。重い病気の告白かと思ったのです。しかしHさんの結論は、医師の診断とは全く別のところにありました。「たぶん私、もうすぐ死ぬと思う」。そう断言する彼女の話は、どこか現実からずれていました。50代を目前に控え、体力や容姿の変化を否応なく突きつけられる年齢になったことで、漠然とした焦りが強まっているようにも見えました。
体調の小さな変化を「死の予兆」に変換する
Hさんが挙げる不調は、どれも日常の延長線上にあるものです。目覚めのコーヒーが胃に合わなくなったこと、食事中にむせる回数が増えたこと、理由がはっきりせず長引く咳、わずかな体重変化。40代後半であれば、誰にでも起こり得る変化です。
それでも彼女は「きっと何かの前兆」「見つかっていないだけで、重大な病気が隠れているはず」と話を進めます。健康診断も人間ドックも結果は毎回「異常なし」。医師からは「むしろ健康」と太鼓判を押されているにもかかわらず、その言葉は彼女の中ではほとんど意味を持ちません。
会えば話題は老いと健康の確認作業
最近、Hさんと会うたびに感じるのは、会話の内容が極端に偏ってきたということです。仕事や家族の話よりも先に出てくるのは、「最近どこか痛くないか」「夜中に目が覚めないか」「血圧はどうか」といった健康チェックのような話題です。
集まる友人たちも同世代ですから、「老眼が進んだ」「疲れが抜けない」「髪質が変わった」といった話には一定の共感が集まります。しかし彼女だけは、そこから一段階先へ踏み込みます。「それ、危ないんじゃない?」「それって病気のサインじゃない?」…。
場の空気が一気に重くなる瞬間です。
「美人薄命」にすがる、都合のいい物語
彼女の話の端々から感じ取れるのが、「美人薄命」という言葉の存在です。本人が口にすることはありませんが、「昔から体が弱かった気がする」「周りから繊細だと言われてきた」「早死にする家系」といった発言が、それを匂わせます。
大きな病名がない現実よりも、「実は特別な運命を背負っている自分」でいたい。その思いが、些細な不調を過剰に意味づけているように見えます。本人は真剣ですが、聞き手としては、どう受け止めればよいのか迷ってしまいます。
病名のない不調が、想像を暴走させる
Hさんは「治したい」というより、「確定させたい」ように見えます。原因不明であることへの不安よりも、「重大な病気だった」「不治の病だった」という結論にたどり着くこと自体が目的になっているかのように病院での検査を続けます。
病名がつかない「なんとなく不調」は、想像力次第でいくらでも恐ろしくなります。そしてその恐怖を語ることで、周囲の関心を集め、自分の存在を際立たせることができる。その構図は、どこか危うさをはらんでいます。
本人が怖いのは、死ではなく普通の中年?
49歳という年齢は、若さも老いも否定できない中途半端な地点です。大病もなければ、人生を揺るがす出来事もない。明らかに感じるのは女性ホルモンの減少だけです。その「何も起きていない状態」こそが、彼女にとっては耐え難いのかもしれません。
彼女の「もうすぐ死ぬかもしれない」という言葉は、死への恐怖というより、平凡な健康体のまま年を重ねていくことへの抵抗にも聞こえます。
老いや不調を語ることでしか、自分の変化を実感できなくなったとき、人はそれを悲劇に仕立てたくなるのです。その姿は滑稽でありながら、同時に、誰の身にも起こり得る現実なのかもしれません。