住宅地の真ん中に“不自然なカーブ”が…その正体とは? 古い航空写真からたどる歴史の名残

平藤 清刀 平藤 清刀

大阪府堺市上野芝町4丁の住宅地を航空写真で見ると、格子状に区画整理された周囲と比べて明らかに不自然なカーブのある道路が確認できる。そのカーブに繋がる道路も合わせてよくよく見ると、どこかで見覚えのある形が浮かび上がってくる。そう、ここはもともと前方後円墳があった場所で、カーブは後円部の名残なのだ。

戦後まもなく宅地化のために潰された大塚山古墳

「上野芝」の地は、日本書紀や古事記に登場する地名「百舌鳥野(もずの)」の南端部に位置する歴史ある土地だ。

古墳の跡地が住宅地になっている例は、実は珍しくない。しかし、前方後円墳の大きな特徴である「鍵穴」の形が、上空から見て分かるほど形をとどめている例は稀有だ。

堺市文化観光局歴史遺産活用部文化財課文化財係から提供された資料によると、ここは4世紀末に築造されたと考えられている「大塚山古墳跡」で、1948年の航空写真には前方後円墳がはっきり写っている。それが1956年、1961年と歳月が経つにつれて消失していく様子が分かる。

大塚山古墳は墳丘長168m、高さ14.5m。墳丘は3段に築かれており、堺市の古墳群では5番目の大きさだったという。それが江戸時代に周濠が埋め立てられて、水田になった。その痕跡も、昭和初期の区画整理で消失。太平洋戦争の末期には、燃料不足を補おうと「松根油」を採取するために松が伐採され、併せて畑地化されたことで急速に破壊が進んだといわれる。

1949年~1952年にかけて墳丘の大半が削平され、造成された土地に住宅が建ち並んだ。最寄りのJR上野芝駅から現地へ向かって歩いてみると、ほんのわずか上り坂になっている。古墳の姿は失われたが、そのような地形の変化からも古墳の名残を感じることができた。

1950年、わずかに残っていた後円部で行われた調査では、副葬品として鉄鏡を含む鏡が5面、玉類や櫛などの装飾品、甲冑類、農工具の鉄製柄付手斧(ちょうな)などが発掘された。また1985年に行われた調査で、墳丘斜面のテラスに埴輪が並べられていたことも分かっている。

かつて古墳だったことがはっきりわかる痕跡は、今では後円部に沿ってカーブする道路だけになったが、古(いにしえ)の昔から連綿と歴史を紡いできた土地であることは記憶にとどめておきたい。

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