水原氏は「極悪人」なのだろうか?
大谷選手にとって、水原氏は通訳としてのみならず、生活全般のサポートをするマネージャーの役割も果たし、非常に頼りになる心強い存在であったことは、傍から見ていた我々にも伝わってきていました。信頼していた人物にこのような形で裏切られた大谷選手の気持ちを考えると、本当にやりきれない思いがします。
ただ、「大谷選手を支えるいい人だと思っていたのに全く違った。欺きながらあんな風に平気でずっとそばにいて、なんてあくどい奴だ」といった、水原氏の人格やこれまでの貢献を単純に全否定することには、私は少し違和感があります(事の経緯や、起訴状で示された水原氏と違法賭博の胴元とのやり取り等を見ると、不信感が極まることも理解できるのですが…)。
どれほど才能あふれる大谷選手でも、世界的な大舞台で新たにスタートを切り、常に活躍し続けることは、容易なことではなかったはずです。また、残念ながら、BLM(Black Lives Matter)やヘイトクライムといったことからも分かる通り、米国には、いまだ、根強い人種差別・偏見が存在します。黒人やヒスパニック、そして、日本人を含むアジア系も、“差別される側”であり、そのことは、米国留学時に私も幾度も痛感しました。
米国は才能あふれ努力をする人を広く受け入れ、心から称賛するお国柄でもあり、それ故に世界中から人を惹きつけてやまない人材の豊富さや層の厚さは特筆すべきでありますが、そうはいっても、MLBにおける人種差別も歴史的に問題とされてきており、「米国の国民的スポーツ」で活躍する「アジア人の大谷選手」にとって、言葉以外の様々なハンディも確実に存在してきたはずです。
そうした中で、水原氏は、長きに渡り、懸命に大谷選手を支えよう・守ろうとしてきたはずで、元からこんな不正を行おうと狙っていたわけではないでしょう。大谷選手の大活躍は、その才能と努力と人格の賜物であるわけですが、水原氏が、その一端を支えていたことは、水原氏への感謝が繰り返し述べられていることからも、確かなことであったでしょう。
水原氏は、大谷選手を支える存在としての強い自負も喜びもあったでしょうが、一方で、眩いばかりに光が当たるスーパースターのすぐそばにいて、「自分はそうではない」という切なさや虚しさのようなものも、もしかしたらあったかもしれません。
古今東西、信頼する側近に裏切られる権力者やスターの例は、枚挙に暇がありません。それくらい、人間の心理というのは、複雑で難しく、危ういものなのではないでしょうか。
手練手管の賭博の胴元(やその裏にいると言われるマフィア)から見れば、水原氏は、さぞかし「巨大なネギをしょったカモ」でもあったことでしょう。
心の弱さもあったでしょうが、類まれなスーパースターの“相棒”となったこと、ギャンブル依存症、莫大な資金を悪用できる環境、こうしたいくつかの条件が重なり、水原氏は大きく人生を狂わせました。
人間は弱い生き物です。だからこそ、こうしたことが起こらないよう、人間の欲望を暴走させない仕組み、実効的なガバナンス体制を築き、機能させることが絶対に必要なのだと思います。
(※本項は、水原氏の行動を擁護する趣旨ではありません。)
「依存症」は深刻な「病気」
今回、水原氏の保釈条件のひとつに、「ギャンブル依存症の治療」がありました。
もちろん、ギャンブル依存症だからといって、犯した罪が許されるわけではありません。ただ、「依存症」は深刻な病気であり、罰を与えるだけでは問題は解決しない、基本的に治療をしないと治らない、結果として、再犯する可能性も高い。したがって、本人及び社会双方のために治療が必要、ということが広く認識されることが大切だと思います。
水原氏の賭けの頻度や金額は異常にしか見えませんが、ある意味、依存症患者の典型的な行動パターンともいえます。
人間の脳内に、ギャンブル等で味わうスリルや興奮といった行動により、快楽物質(ドーパミン)が放出されると、中枢神経に作用し、快楽・喜びにつながります。行動が習慣化されると、快楽物質の強制的な分泌が繰り返され、すると、次第に中枢神経の機能が低下してしまい、以前のような強い快感や喜びを得ようとして、ますますギャンブルの頻度や金額が増えていく、という悪循環に陥り、もはや自分の意志ではコントロールできなくなります。
そして、どんなに負けても、なぜか「次こそは勝てる」と思い込み、そして「これで最後にするから」が延々と続くことになります。正常な判断がつかなくなり、びっくりするような嘘を重ね、人間関係を壊し、会社をやめ、破産し、家族から縁を切られ、人生をぶち壊す――そういう人が、世の中に一体どれほどたくさんいることでしょうか。
かつては、アルコールや薬物、ギャンブル等に依存するのは、本人の意志の弱さや道徳観念の問題とされてきましたが、人間の脳の作用による病理であるということが分かってきました。各種の犯罪行為につながるリスクも高まることにかんがみれば、たとえ治癒への道のりは容易ではないとしても、医学的治療や福祉的支援等につなげていくこと、そしてそのことによって、少なくとも、患者がひとりきりで、あるいは家族だけに抱え込ませないようにすることが重要であると、社会が認識することが求められていると思います。