日本を今も忘れぬ「台湾少年工」 日台の深い絆を物語るふれあいの森の台湾亭 神奈川県大和市

松田 義人 松田 義人

神奈川県大和市に「ふれあいの森」という9ヘクタールもの市立公園があります。公園内には水辺が復元され、四季折々の花や樹木を楽しめる施設などもあります。この一角には存在感を示しているのが、台湾式休憩スペース、その名も「台湾亭」です。

台湾各地にある休憩スペースと同様の作りで、高さは基壇部を含める約10メートルとなかなか立派なもの。本格的な絵柄陶器がはめこまれていたり、床にも台湾の観音石があり、正面には台湾の地図を模したモニュメントもあります。

市の公式サイトによれば、この休憩スペースの工費は寄付などで賄われ総額約2千万円。休憩スペースの手前には鍵付きの門があり、月曜日以外の9〜16時しか利用ができません。

なぜ市立公園に台湾式休憩スペース、なのでしょうか。

台湾と大和市エリアの切っても切れない深い関係

実は大和市と太平洋戦争期の台湾出身者には深い関係がありました。

当時の台湾は日本が統治。台湾出身者も「日本人」として前線に赴いた例は少なくなく、多くの命が犠牲になりました。また、戦線を拡大した日本は慢性的な労働力不足にあえいでおり、関東圏に住む日本人の少年たちだけでなく台湾出身の少年工員も募集。大和市、座間市、海老名市にまたがるエリアに海軍航空兵器製造工場の建設が始まり、実際に「雷電」をはじめとする海軍の戦闘機を生産していました。

計画どおりに工場が完成すれば、日本最大の機体生産工場になる予定でもあったこと、将来は航空技師への道も期待できることから、12〜19歳までの台湾出身の少年工員(以下、少年工)が約8400人も働いていました。

終戦直後も整然と生活していた台湾少年工

こういった軍事工場は空襲の標的になりやすく、1945年7月30日には大和市内の山林が空襲を受けて、複数の台湾少年工が犠牲となりました。このほかにも大和市内では10人がなんらかの攻撃で亡くなったことからも、過酷な環境であったことには違いがありません。

終戦になると、各地からこの大和市内の少年工が暮らす寄宿舎に送り返され、台湾出身の少年で一杯になりました。世相が混乱する中、日本人が襲撃される事例は各所に多くありましたが、ここでも少年工たちは年長の指導者を中心とし、役割分担をしながらまとまり秩序を守り集団生活をしていたとされています。後にその多くは、犠牲になった少年工の遺骨、負傷者と付き添い人から順に台湾へと帰っていきました。

元少年工の多くがさらなる苦労を強いられた

帰国した少年工のごく一部は工場の卒業証書を日本から受け取ることができたものの、多くの人たちは得ることができず、その後の台湾を統治することになった中華民国の公用語を学ぶ必要があり、職業を得るのにも大変な苦労がありました。大変な苦労を強いられながらも、大和市の工場で習得した技術・精神力をさらに昇華させ、台湾の工業化の中核として活躍した人も多くいました。

「台湾亭」は元少年工たちにより建立・寄贈された

後に、大和市の工場で過ごしたかつての少年工たちは、苦楽をともにしたことを懐かしく思い、かつての工場の名前から「高座会」という同窓会を結成。中には、当時少年工事代に出会った日本人との友情をずっと大切にする人もおり、途切れなく交流を深める人も多くいました。

そして、この高座会の元少年工らが、空襲で亡くなった同士への鎮魂と平和を願い、1997年に「ふれあいの森」の一角に台湾亭という立派な休憩スペースを建立し、大和市に寄贈しました。また、「ふれあいの森」のすぐ近くにある善徳寺というお寺には、「戦没台湾少年の慰霊碑」があります。

戦時下はもちろん、今日も台湾と日本の絆を守り、台湾亭はそれを象徴するモニュメント。日中に限って公開し、大切に守り続けているというわけです。

コロナ禍からの反動で海外旅行が復活し再び台湾ブームが再燃する今ですが、日本国内にある台湾と日本が絆を深めた舞台を訪れるのも興味深い体験になります。台湾と日本の縁を知り、台湾への理解がより深まるように思います。

「台湾亭」大和市による解説
https://www.city.yamato.lg.jp/gyosei/soshik/38/kokusai_heiwa/heiwa/virtua/kiti/14871.html 

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