京都府南部の麦わら猫の心春(こはる)ちゃんは、ベランダからお外を眺めるのが大好きなんです。もっと遠くが見たくて、お父さんの肩に乗ったりお母さんに抱っこしてもらって景色を楽しみます。
彼女は9歳まで、こんな広い世界があるとは知りませんでした。それまでの彼女の世界は、大きな音のする工場と多くの猫と暮らすシェルターだけ。もちろん工場もシェルターも楽しくて、お友達がたくさんいたんですよ。
仲間と過ごした9年間
賑やかでそれなりに幸せだった工場とシェルターの暮らしですが、心春ちゃんには足りないものがありました。それは「特別」というもの。工場ではお世話をしてくれていたのは、お爺さんただ一人。一人で十数匹の猫のお世話をしていましたから、お爺さんのお膝はいつも仲間と争奪戦になっていました。
お爺さんが工場を定年退職する2021年春に、心春ちゃんと仲間たちは保護猫団体「高槻ねこの会」のシェルター「ねこのおうち」へ。ここでもお世話をしてくれるのは、心春ちゃんの特別な人ではありませんでした。みんなのスタッフさん。工場のお爺さん以上に優しくしてくれるけれど、心春ちゃんのお父さんでもお母さんでもありません。
それに工場でもシェルターでも子猫や若い猫が仲間に加わると、心春ちゃんはつい色々と譲ってしまいます。ご飯をどうぞ、おもちゃもどうぞ。心春ちゃんは目の前にいる自分より弱い存在に、心を寄せることができる女の子でした。
わたしの「とくべつ」
そんな心春ちゃんに転機が訪れたのが、2022年1月のこと。高槻ねこの会の定例譲渡会に参加することになったのです。そこに訪れたのが、京都府南部で暮らすD夫妻です。「いつか猫と暮らしたいね」と、ペット可のマンションに引越したばかり。今回の譲渡会では、どんな子がいるのかを見ていました。
そこにスタッフが「抱っこできる子ですよ」と心春ちゃんを推薦してくれたのです。心春ちゃんは初めて会う人なのに、D家のお母さんにしがみつきました。元々抱っこは好きなのですが、ここまでしがみつくことはほとんどありません。まるで、「いっしょに帰ろう」と言っているかのよう。しがみつかれたお母さんの心は揺れます。
今まで実家で多くの猫と暮らしてきたお母さん。こんなに抱っこが好きな猫は初めて。すぐ迎えたい気持ちはあったものの、一緒に暮らしているモルモットのペロちゃんとの相性が気になりました。即決は見送ります。
帰宅後、お父さんと何度も話し合いを重ねます。工場やシェルターで暮らしてきた心春ちゃんを、自分たちで幸せにできるだろうかと。ペロちゃんにも相談します。「猫を迎えても良いかな。あなたに意地悪をしない子だと思うの。でも嫌だったら、断るよ。一回、会ってもらいたいの」と。
春の訪れと共に
遂に夫婦は決断を下します。2022年3月6日からトライアル開始。この時、お母さんは心春ちゃんにプレゼントを用意しました。それは名前です。私たちと暮らすことで、心が春のようにポカポカになってほしいという願いから「心春」。心春ちゃんはすぐ馴染んで、呼ばれるとお返事するように。
トライアル期間は問題なく過ぎ、花が咲き乱れる春の訪れとともに正式にD家の一員となります。心春ちゃんは、初めてのことばかりで大はしゃぎ。今まで猫のお友達はたくさんいましたが、モルモットは初めて。ペロちゃんとすぐ仲良くなりました。
ベランダから遠くを眺めるのも初めてだし、何より自分だけの特別な存在が初めてでした。誰ともお膝の取り合い抗争しなくて済むんですよ。お父さんが座ったらぴゃーっと走っていって、お母さんがソファーでゴロンとしたらお腹にピタッ。心春ちゃんだけのお父さんお母さん。
凍てつく冬、沈黙の春
幸せな日々が続くと思われましたが、寒い冬の日のこと。2023年1月にペロちゃんが老衰で他界。ペロちゃんは小さなモルモットなのに、いなくなっただけで家が広くなってしまいました。心春ちゃんはペロちゃんのケージがあった場所にたたずみます。パソコンからモルモットの鳴き声が聞こえると、「かえってきた!」と嬉しそうにモニターの裏に行くことも。
それでも、白い木蓮の花が咲き始めるころには、心春ちゃんの気持ちも落ち着いてきました。しかし、今度は心春ちゃんの目の上に、コブのようなものができたのです。桜の花が散り、青々とした葉が空を覆う季節のことでした。かかりつけの動物病院腫瘍科では、原因が分かりません。動物病院では、炎症を鎮めるためのステロイド剤を処方してもらいました。他、免疫力を上げるためのサプリメントも飲みます。
大阪南港の大きな動物病院で詳しい検査ができると教えてもらったものの、車で片道1時間半以上かかるため通院は現実的ではありません。なにより、心春ちゃんが動物病院に行くたびに弱っていったのです。慣れないケージに長時間入っていることがストレスで、目に見えて衰弱しています。
大切な仕事を終えて
実は猫エイズキャリアの心春ちゃん、ストレスが大敵です。お母さんはパートを休業し、心春ちゃんにつきっきりで看病します。好きな物だけで良いから食べてほしい。心春ちゃんはお母さんの気持ちが分かるから、「げんきだよ」と伝えるためにフラフラの体で爪とぎをすることもありました。
ツバメが空を飛び交う季節になると、心春ちゃんは起き上がるのも難しくなります。それなのに、6月29日19時半ごろ、心春ちゃんは何かに気付き、玄関の方に体を引きずっていきました。お父さんが帰ってくる音が聞こえたのです。お父さんが扉を開けると、心春ちゃんはお父さんを見上げました。
「おかえりなさい」
お出迎えが終わると、心春ちゃんは静かにお母さんの腕の中で旅立っていきました。
特別な景色
心春ちゃんのいない夏が過ぎ、季節はもう秋。心春ちゃんと一緒に眺めた山の木々も、そろそろ色付いていくことでしょう。お父さんとお母さんは、今もベランダから外の景色を眺めます。
心春ちゃんがいなければ、何の変哲もない田舎の風景。でも、心春ちゃんと一緒だったから特別になりました。この景色を、これからも目に映していたい。
心春ちゃんも空から同じ景色を見ているかな。
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