田沢湖で直面した「死の水」の歴史。玉川毒水のいまを知る~その2~鉄爺旅の徒然#10

沼田 伸彦 沼田 伸彦

 順序は逆になるが、秋田で玉川温泉と田沢湖をめぐり、玉川毒水と呼ばれる生物の存在を許さない強酸性水が地域にもたらした負の歴史を知り、神戸に戻った。ほどなく別の用事で東京に出かける機会があったのを利用して、国立国会図書館を訪ねることにした。玉川毒水の裏面史がどの程度記録にとどめられているのかを知りたかった。

 その昔、デイリースポーツで東京へ単身赴任中にある連載企画を担当したことがあり、事実関係の調査で足しげく国会図書館に通った時期がある。20年以上前の話だ。それ以来久しぶりに訪ねる国会図書館は、建物、施設の様子こそ変わっていなかったが、図書、資料をめぐる環境は驚くほど様変わりしていた。

 閲覧室にはデスクごとにパソコンがずらーっと並び、たいていの書籍はそのパソコンの画面上で閲覧ができる。早速、いくつかのキーワードを頼りに関連書籍を検索していった。ところが、思ったほど書籍の点数が多くない。加えて検索した書籍の中にも、こちらのニーズを満たしてくれないものも少なくなく、半日かけての資料漁りの成果は、期待の半分にも満たなかった。

 話を玉川温泉から田沢湖へのドライブへ戻す。玉川温泉の強酸性水を導水したことで、田沢湖は一時死の湖と化した。その象徴として語られるのが国内では田沢湖にしか生息していなかったクニマスの死滅だ。記録によると1948年にはクニマスが姿を消している。

 ではなぜそんなリスクを冒してまで玉川の水を田沢湖に導こうとしたのか。1934年、東北地方全域は歴史的な飢饉に見舞われている。戦争に向かっていく国家にとって、本来大穀倉地帯である東北の農作物に頼るところは大きい。玉川の豊かな水量を流域の灌漑に生かすことは、おそらく国家的命題であったのだろう。

 そこで玉川の強酸性水をいったん田沢湖に引き入れ、酸性度を希釈した上で下流に放水するという計画が導入された結果、田沢湖からはあらゆる生物が姿を消してしまった。

 このクニマスには有名な後日談がある。1935年、他の地域でのクニマスの孵化増殖を目指して、国内のいくつかの湖に孵化した卵が送られていた。その卵から受け継がれた個体が2010年になって山梨県の西湖で発見されたのだ。そのクニマス10匹を借り受ける形で、現在田沢湖畔の「田沢湖クニマス未来館」に展示されている。

湖水の酸性度を改善するために、玉川には玉川、鎧畑というふたつのダムが建設され、いったんそこに貯めた水をアルカリ性の石灰石などを投入することによって酸性度を下げ、その水を川に戻すという試みが続けられている。

そうした取り組みの効果もあって、1940年はpH(ペーハー)6.5レベルだった田沢湖の湖水は、70年ごろにはpH4.2のレベルまで酸性化が進んでいたが、2008年には中和が進みpH5.2となっている。ただそのレベルではまだ生息できるのは酸性水への耐性をもった一定の種類の魚類、生物でしかない。

現在は展示施設の水槽で飼育されているクニマスが、もともと生まれ育った水に戻る日がやって来るのだろうか。

日本で一番水深の深い湖の周りを車でぐるっと回った。週末ということもあって観光客の姿もそれなりに見ることができた。しかし、その裏面史を知った上で眺める湖水の様子はにぎわいとは程遠く、どこか暗く、無機質に見える。

流れ込む水をたどった上流にある玉川温泉の訪れる人を驚嘆させる奇景。その距離40キロばかりの間に刻み込まれた歴史はなんとも重苦しい。(この項おわり)

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