やさしき怪童…記者だけが見た、中西太さんの思い出 痛風でスパイクはサンダル状態、新幹線・食堂車の酒も飲み干した

沼田 伸彦 沼田 伸彦

 中西太さんが5月11日に亡くなった。

 スポーツ記者人生の中で、忘れられない野球人のひとりだった。

 内勤での入社1年目が終わろうかという1980年1月、阪神タイガース担当、いわゆるトラ番記者としての辞令を受けた。同じタイミングで新人として入団してきたのが現在の岡田彰布監督。中西さんは前年から一軍の打撃コーチを務めていた。

 ところがブレイザー監督が5月に辞任することになり、後任の監督に就いたのが中西さんだった。プロ野球記者として初めて接した監督といってもいい。

 訃報を伝えるデイリースポーツを読んでも、スラッガーとしての怪童ぶり、打撃指導者としての類まれな存在については詳しく書かれている。一方で29歳の若さで西鉄ライオンズの選手兼任監督に就いて以来、4球団を率いた監督としての業績はやや影が薄い。

 ただ、いま心の中に残っているのは、そうしたユニホーム姿の中西さんのことではなく、記者として度々触れさせてもらったその優しさの方だ。時にそれが監督としてのありようの足を引っ張ったのではないかと思うことがあった。

 最初で最後、そんな思い出を書き連ねてみたい。

 中西さんにはよくごちそうになった。当時単身赴任で住んでおられたのは甲子園球場からほど近いマンション。その目の前に「おばちゃん」というおでん屋があり、中西さんは毎日のようにここに足を運んでいた。試合が終わると、甲子園から帰宅がてら店に立ち寄る。こちらが仕事を終えて店をのぞく形で遅くまで酒を飲んだ。

 当時、中西さんは痛風を患っていた。痛みがひどい時はスパイクを履くと歩くことができなかった。苦肉の策でスパイクのつま先の部分を大きく切り取り、まるでサンダルのような形にして痛みをごまかしていた。

 試合になると監督はベンチからグラウンドに出て主審に選手の交代などを告げる役目がある。その足元に気がついた人は、まさかサンダル履きで!?とビックリしたのではないだろうか。「原因はわかっとる。おでんの食べ過ぎや」。半ば本気でそんなことをよく聞かされた。

 生まれて初めて博多の屋台に連れて行ってくれたのも中西さん。当時、たまに阪神が平和台に遠征することがあり、トラ番記者数人を連れて中洲に繰り出した。博多で中西太といえばライオンズ黄金期の大ヒーローだ。

 道行く人は振り返り、なじみの屋台は貸し切り状態。ただ帰る段になると耳元で「今度自分らだけで来る時は、注意せんと結構取られるぞ」と言って、笑いながら背中をどやされた。

 これも定番だったのは東京遠征で使う新幹線の食堂車。席数が限られているので、参加できるのは各紙ひとりずつだったが、およそ3時間の道中をずっとここで過ごす。あるとき、東京で散々の試合をした帰り、おそらくやりきれなさが募っていたに違いない。決して試合や選手のことをぼやくようなことはなかったが、それを酒にぶつけた。

 名古屋を過ぎたあたりだったか、食堂車のスタッフがテーブルのところにやって来て「すみません。きょう積んできたアルコールは全部なくなりました」と苦笑いしながら頭を下げ、皆で大笑いしたことを思い出す。

 阪神の監督を務めたのは2年足らずだったが、その終盤は口内にできた腫瘍のようなものに悩まされておられた。本気かどうか、「舌ガンや。ワシも長いことないと思う」と言われ、ドキッとさせられた。そのことはずっと気になっていたのだが、その心配をよそにヤクルト、近鉄、巨人、ロッテ、オリックス…と打撃の指導者としてまさに引っ張りだこの活躍が続き、気がつけば90歳での大往生とあいなった。

 振り返れば、お世話になったころから40年以上が経つ。その後実際にガンを患われたこともあったようで、近影を拝見すると随分やせられたなと感じる。それでもそのいかつい顔からそこはかとなく漂う優しさは変わらない。

 ふとっさん、ありがとうございました。

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