アムールトラに襲われベテラン飼育員が死亡 完全でなかったダブルチェック体制 京都市動物園が2008年の惨事から学んだ重い教訓

堤 冬樹 堤 冬樹

 京都市動物園(左京区)の一角に「偲(しの)び繋(つな)ぐ」と刻まれた石碑がある。アムールトラに襲われて死亡した飼育員の男性(当時40)を追悼するため、職員有志が建てたものだ。発生からまもなく15年となる悲劇はなぜ起きたのか、その教訓をどう生かしているのか―。この4月に開園120年を迎えた市動物園で、職員が動物に襲われて死亡した唯一の事故を振り返る。

 事故は2008年6月7日に起きた。男性がトラの飼育室を掃除しようとした際、本来閉まっているべき扉が開いていて、被害に遭った。確認が不十分だったとみられる。

「あの時に根本的な対策をしていれば…」

 実は同園では、その3年前にも別の飼育員がホッキョクグマにかまれる事故が発生していた。この時も飼育員が作業手順を誤っておりに入ってしまい、頭を負傷し、肋骨(ろっこつ)を折るなどした。

 ホッキョクグマが高齢で犬歯の先が欠損していたことや、発見が早かったことなどが幸いして命は無事だったが、ホッキョクグマがおりから出る可能性もあったという。

 この事故後、猛獣舎での施錠作業などは単独で行わず、複数人によるダブルチェックを取り入れた。

 悔やまれるのは、そのダブルチェック体制が週1回のみだったことだ。坂本英房園長は「あの時に根本的な対策をしていれば、死亡事故は防げていたかもしれない」と肩を落とす。

 飼育員はともにベテラン。亡くなった男性について、「とても優秀で人格的にも素晴らしかった。『まさか』『なぜ彼が…』という思いが強かった」と坂本園長は言う。トラはその後、繁殖のため浜松市動物園に移された。

 どちらの事故にも共通し、大きな教訓となったのは「人は必ずミスをする」(坂本園長)ということ。「同じ事故がまた起これば、この動物園はつぶれてしまう」。そんな強い危機感も胸に、再発防止に取り組んできた。

ダブルチェックを毎日徹底

 死亡事故を受け、週1回だったダブルチェックを毎日するようになった。対象はトラやジャガー、ゴリラやゾウなど特に危険な9種類。朝夕に寝室とグラウンドなどを行き来する時は必ず、飼育員に係長級以上の職員が付き添う。

 きちんと施錠されているか、作業マニュアルの手順を間違えていないか。係長級以上の職員は飼育員を手伝わず、その動作が正しいか注意深く監視する。

 「(ジャガーの)アサヒ出しまーす」。トラやジャガーなどを担当する飼育員の河村あゆみさん(43)が声を上げた。施錠時などは駅員のように、声を出したり指を差したりして確認する「指差喚呼(しさかんこ)」を徹底している。

 河村さんは「初めてトラを担当した時は手が震えるくらい緊張した。1人だとどうしても間違いが起きるが、ダブルチェック体制だと安心できるし、声を出すことで自分にも言い聞かせて作業に集中できる」と効果を実感する。

 ただ、ダブルチェックのためにはその分、職員が多く必要になる。他の仕事をいったん中断して立ち会う場合も珍しくなく、他園での導入例は少ないという。京都市動物園も人的余裕がある訳ではなく、持続可能な仕組みにするため現行の係長級以上から、主任級以上まで「監視役」を増やす検討もしている。

 リスクの高い動物の移動時などは、動物の所在の確認が基本だ。動物がいる部屋の扉には、動物の写真と名前の付いたプレートを貼り付けて目印としている。河村さんは「ちょっとしたことかもれしれないが、意識付けにつながる」と指摘する。

「ヒヤリ・ハット事例」収集も

 サルに帽子を取られたり、トランシーバーを置き忘れたり…。事故後、日々のミスなど「ヒヤリ・ハット事例」の収集も始めた。小さなミスを放置すれば、やがて大きな事故を招く恐れがあるからだ。

 ヒヤリ・ハットは2022年度に70件、21年度は76件集まった。月1回、管理職の安全対策委員会や、飼育員らが集う安全衛生委員会でミス情報を共有し、再発防止に生かしている。

 ハード面も大きく変わった。高リスクの9種類の動物舎では年2回、施設に不具合がないか点検している。

 特に、トラなどがいる猛獣舎では電気錠を導入。飼育員が動物の飼育室で作業を始める際には、他の仕切り扉が完全に閉まっていないと中に入れない仕組みに改良された。

 12年の猛獣舎のリニューアルで、死角が多かった飼育員の作業エリアも改善。カメラを設置して入り口のおりに囲まれた安全な場所から監視できるようになった。

 また、飼育員は異常が発生した時に備え、緊急通報ボタンを備えた無線機を携帯している。各動物舎では体の傾きを感知できる機器を飼育員が身に付けて作業するようになった。機器のボタンを押したり、事故などで倒れて一定の時間が経過すれば、事務所などでもサイレンが鳴る。

職員の半数以上が事故を知らない世代に

 惨事から15年。職員の半数以上が事故を直接知らない世代になった。記憶の風化や対策の形骸化を防ごうと、新人職員も事故について細かく学ぶ。

 飼育員4年目でサル舎を担当する櫻井ひかりさん(25)は新人研修を受け「事故を目の当たりにした人の生の声が胸に刺さり、あらためて気を付けなければならないと考えるようになった」と振り返る。

 「動物を毎日世話をしていると『慣れ』が生まれやすいが、ペットとは違う。新人の頃に柵越しに感じた動物の『怖さ』も忘れてはいけないと思う」

 同様の安全研修は全職員が2年ごとに受けるほか、命日の6月7日には全職員が慰霊碑の前で黙とうをささげ、安全への思いを新たにしている。

 「非常に高いレベルの安全対策ができており、個人的には日本一だと自負している」と坂本園長が話すように、同園ではその後、大きな事故は起こっていない。

他園で相次ぐ飼育員の死傷事故

 だが、18年に鹿児島市平川動物公園でトラに、19年には多摩動物公園(東京)でサイに襲われたとみられる飼育員が死亡するなど、近年も各地で死傷事故が相次ぐ。その多くがヒューマンエラーに起因するという。

 多発する事故を受け、全国の動物園や水族館が加盟する日本動物園水族館協会(東京)は今年、初めて安全対策のガイドラインを策定する予定だ。

 協会の安全対策部長も務める坂本園長は「どの園でも事故は人ごとではなく、現場にいる一人一人の安全への意識付けが大事。ミスを犯した時に補える仕組みづくりも欠かせない」と強調する。楽しい動物園は、安心安全に支えられてこそ。過去の悲劇を忘れず、重い教訓をつないでいく。

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