関西私鉄の秘史 なぜ京阪だけ球団なかった? 寝屋川に幻のヤンキースタジアム構想「横やり入った」 

国貞 仁志 国貞 仁志

 関西の大手5私鉄で、京阪だけが持たなかったものがあります。それは何でしょう?

 答えは、プロ野球の球団。阪神はごぞんじタイガース、阪急、南海、近鉄も昭和のころにパ・リーグの球団を持っていた。京阪に理由を問い合わせると、広報担当者は「たまに聞かれるんですが、なにも記録が残っていないので…」と困ったようす。

 2月25日、このナゾに迫る講座が京都府立京都学・歴彩館(京都市左京区)であった。講師は、鉄道史とプロ野球史の双方にくわしい歴彩館資料課長補佐の若林正博さん(54)。ユニークな視点からの考察に140人の参加者が耳をかたむけた。

 若林さんが京阪と野球の関係についてまず指摘したのが、寝屋川球場(大阪府寝屋川市)の存在。1922(大正11)年、いまの寝屋川市駅の近くにあった「京阪グラウンド」に関西初の本格的球場としてオープンした。

 2年後、京阪は思いきった構想をぶち上げる。始まったばかりの選抜中等学校野球大会(現在の選抜高校野球大会)を寝屋川球場に呼んでこよう-。

 主催の毎日新聞社と京阪でトップ会談までおこなわれ、米・大リーグのニューヨークヤンキースの本拠地を参考に改修する図面までつくっていた。が、幻に終わったという。

 若林さんは京阪の社史をひもとき「選抜野球が開催される春は、大阪から京都へ向かう行楽シーズン。観光客以外に野球の観戦客まで輸送できるのかと横やりが入った」と社内事情を理由に挙げた。また車両を新たに造って輸送力を高める案も議論されたが、経費の面から見送られた。

 大きな球場を持っていなかったことは、京阪とプロ野球との接点を遠ざけることになる。阪神は1924年に甲子園球場をつくった。戦前から球団を持っていた阪急は西宮球場、南海は大阪球場、近鉄も藤井寺球場があり、それぞれ本拠地を整備していった。

 とはいえ、戦後、プロ野球に参入する大きなチャンスは1度あった。

 1949年、毎日新聞社のプロ野球参入をめぐってリーグが分裂。2リーグ制に再編され、球団の新規参入が相次いだ。名乗りをあげたのが藤井寺球場を持っていた近鉄であり、関東では国鉄、九州では西鉄が加わった。

 京阪は、そのとき何をしていたのか。関西の鉄道史をひもとけば、明らかに球団を「持てない」事情があった。

 「まだ会社がなくて、阪急と一緒の会社だったんです」と若林さんは語った。京阪は戦時中、国策により阪急と合併していた。つまり、49年のリーグ再編のタイミングで意思決定ができる体制になかったというわけだ。

 ちなみに京阪が阪急と分かれたのは、この年の12月。もし時期がずれていれば、「京阪ヤンキース」とか「京阪エンゼルス」、はたまた京阪特急のヘッドマークの鳩を英語にした「京阪ピジョンズ」なんていう球団が沿線にできていたかもしれない。

 プロ野球史をみれば、球団の身売りなどでオーナーが変わることはあったが、球団数は増えておらず、新規参入のハードルは高いことがわかる。若林さんは1949年のリーグ変革期を指し「その時だけがプロ野球に参画するチャンスだった」と、機を逃した京阪の運命をたどる。

 この講座のタイトルは「鉄道とプロ野球の不思議な関係 ~球団を持った私鉄、持たなかった私鉄」。若林さんは最後に、鉄道ファンが思わず膝を打つようなネタを披露した。

 京阪、東武、小田急の各私鉄を挙げ「球団を持たなかったところが複々線化区間の距離でベストスリー。偶然の一致で、なんの因果関係もありませんが…」と、遊び心をまじえた。

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