東映太秦映画村の「綱渡り忍者」 田村正和とも共演、45年の経歴に「カツドウ屋の魂」と中島貞夫監督

京都新聞社 京都新聞社

 人気を博したNHK連続テレビ小説「カムカムエヴリバディ」。舞台のモデルや撮影地となった東映太秦映画村(京都市右京区)には、時代劇を守ろうと奮闘したヒロインひなた(川栄李奈)のようなスタッフもたくさんいる。そんな中、開村間もない1977(昭和52)年から寡黙に働き続けるのが知る人ぞ知る「綱渡り忍者」。45年の経歴をひもとくと、時代劇や映画村の変遷を見つめ続けるかなりのつわものだと分かってきた。=敬称略

 綱渡り忍者には名前がない。映画村の職員は「忍者」という、そのままの愛称で呼んでいる。映画村の正面「東映城大手門」横の忍櫓(しのびやぐら)から顔を出し、ワイヤロープ(全長15メートル、高さ6メートル)をつたって進んでいく。手足を交互に伸縮し、5分ほどかけて往復する。

 遠目で初めて見た子どもたちは、人間が綱渡りをしているのかと驚き、近寄ってくる。管理部の梅田裕明課長代理(59)は「大人のお客さまも近づかれ『なんや、ロボットか』と言われると、私も心の中で『そうです。ロボットです。よくできているでしょ』と誇りに感じます」と愛着を抱く。

 そもそも映画村がオープンしたのは75(昭和50)年。時代劇や任俠(にんきょう)映画が下火になり、屋外セットや人員を持て余した東映の本社は、スーパーマーケットへの用地転用などをひそかに考えた。そんな中、当時の京都撮影所長・高岩淡(後の東映社長)がセットの一般公開を提案。多くの映画人が映画村の職員となり、企画や営業に走り回った。

 当初年間70万人と想定した来場者は200万人前後にのぼる大盛況に。「京都から映画の灯を消すな」の合言葉通り、映画村で稼いだ資金で映画作りを始めた。第1作は「柳生一族の陰謀」(78年1月公開)。萬屋錦之介や千葉真一、三船敏郎らがそろい、監督は深作欣二。「12年ぶりの時代劇巨編」とうたった。

 綱渡り忍者は「柳生一族―」公開を控えた77年9月に登場した。映画に出てくる忍者をイメージして宣伝用に作られたらしい。冊子「映画村20年の歩み」(95年刊)ではデビュー当日の写真を掲載=写真。今とは少し異なる中央広場の空中を進むのを人々が見上げている。

 80年にテレビ放映された山村美紗原作の土曜ワイド劇場「映画村殺人事件」では田村正和演じる主人公と重要な役回りを果たした。

 脚本・演出を担った東映京都出身の中島貞夫監督(87)は「映画村の中で何かトリックを考える中で、あの綱渡り忍者を使おうと思い付いた。いつも風景になじんでいるから、本当の人間と入れ替わっても誰も気付かないのではと思ってね」と振り返る。ロボット人形に代わって田村正和が綱渡り忍者にふんし、渡るシーンを撮影した。

 「まずロボットを取り外すのが大変だったのを覚えている。映画村のおかげで僕もいろんな作品を撮らせてもらった。映画村と撮影所は表裏一体」と中島監督。「あの綱渡り忍者には、あの手この手でお客さんを喜ばせようというカツドウ屋の魂が宿っている。映画村の象徴といっても過言ではない」とたたえる。

 映画村の利益で作られた「赤穂城断絶」(78年)、中島監督の「真田幸村の謀略」(79年)といった映画のほか、「水戸黄門」「遠山の金さん」「暴れん坊将軍」といったテレビ時代劇の盛衰も見守ってきた。

 綱渡り忍者は、資料が乏しく詳細不明だが、少なくとも2004年に一度、代替わりをしている。「カムカム―」では「モモケン」こと時代劇スター桃山剣之介(尾上菊之助)が初代から二代目へ継承されたが、綱渡り忍者も「部品が摩耗して寿命が来たので、前の人形を模して特注で作りました」と梅田課長代理。毎年1月、黒装束を新調するのを恒例にしている。

 「雨にも負けず、風にも負けず」と書きたかったが、実は雨には弱い。水が入ると故障の恐れがあり、降り出すと手動で止められて忍櫓へ忍び込む。

 それでも雨が上がると、綱渡り忍者は、再びこつこつと地道に働き出す。たとえ時代劇が減り、映画村の来場者が最盛期の半分以下となり、コロナ禍が追い打ちをかけようとも。この春休みは「カムカムエヴリバディ」を追い風に、にぎわいを少し取り戻した。映画村も、時代劇も、いつか「ひなた」の道を進めるよう願わずにはいられない。 

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