創業1903(明治36)年の老舗和菓子店「京華堂利保」(京都市左京区)が1月31日、118年間守ってきたのれんを下ろした。茶道三千家の一つ、武者小路千家の家元好みの菓子で、大徳寺納豆がこしあんに練り込まれた「涛々(とうとう)」で知られ、茶人に愛された店だった。後を継ぐはずの4代目主人の次女が16年前に急逝したことが、閉店の理由の一つになったという。店には最後まで客の姿が途切れず、惜しむ声が聞かれた。
同店は東山区で創業し、戦時中の1945年7月、建物疎開で現在の二条通川端東入ルに移転した。「涛々」は大徳寺納豆を混ぜ込んだあんを、堅めのふ焼き煎餅で挟んだ菓子。甘さの中に、みそのような塩味がアクセントになる。武者小路千家先代家元の有隣斎(うりんさい)と、同店の2代目主人が戦後、完成させた。
同店によると、武者小路千家の歴代家元は江戸時代、高松藩主松平家に茶道指南をしていた。香川には干し柿のようかんをふ焼き煎餅で挟んだ銘菓「木守(きまもり)」がある。大徳寺納豆は千利休の墓がある大徳寺(京都市北区)門前で室町時代から作られており、「家元は木守を京都風にアレンジしようと考え、涛々が完成したのでは」と、京華堂利保2代目の孫で4代目主人の内藤正さん(74)は推測する。
大徳寺納豆は、豆と塩をたるで熟成させ、天日干しした発酵食品だ。においも塩分も強く、主菓子に使うのは一般的には難しいという。「あんと大徳寺納豆との絶妙の配合を探るのに、祖父は苦労しただろう」。内藤さんは、涛々のあんで上生菓子や薯蕷饅頭(じょうよまんじゅう)を作ろうと何度も試みたという。しかし納得できる味は完成しなかった。「ふ焼き煎餅で挟むからこそ、あの独特のあんが生きるんやとよう分かりました。本当に良くできた菓子ですわ」
店が試練を迎えたのは2000年6月。内藤さんが心筋梗塞になり、命はとりとめたものの、心臓に後遺症を抱えた。店では、大学院を卒業した次女の彩さんが数年前から働き始めていた。口には出さなくても、後を継ぐつもりなのだと感じていた。「娘に伝えられることはすべて伝えたい」。そんな思いが力になったのか、内藤さんは奇跡的に回復し、以前のように菓子作りができるまでになったという。
彩さんは、商品の一つで、直径15センチほどのどら焼きに似た菓子「時雨傘(しぐれがさ)」を「時代に合わせて一回り小さくした方がいい」と提案した。2代目が考案した「宝尽くし」の文様を現代風にアレンジし、色鮮やかな包装紙や菓子箱も作った。時雨傘は「インスタ映えする」と若い客の間で人気となり、包装紙は雑誌の特集で取り上げられた。「古いものに新しい感性を吹き込むのがうまく、菓子屋に向いていた」
ところが06年4月、彩さんは突然、くも膜下出血で倒れた。すぐに病院に運ばれたものの、医師からは脳死と告げられた。家族で相談し、延命措置は選択しなかったという。31歳だった。
閉店を決めたのは昨年の夏ごろ。70歳を過ぎた頃から、内藤さんは後遺症もあって体力の衰えを感じるようになった。「もうやめよう」と何度も思ったが、茶道家元の菓子を任されているという責任感があった。20年近く店に勤める職人に託すことも考えたが、先祖代々の人間関係で成り立っている世界で、実現しなかった。75歳を前に、ますます体がつらくなり、決断した。
閉店は家元や限られた得意先と取引先にだけ伝え、静かにその日を迎えるつもりだった。ところが、客がSNSに投稿したのを機に、若い客が次々と訪れるように。「これほど多くの人に来ていただけるとは予想もしておらず、材料も用意していなかった」。涛々をはじめとした商品はほどなく売り切れ、最後まで作り続けたのは、彩さんの助言で人気商品となった「時雨傘」だけだった。それも生産が追いつかず、後日発送で300件以上の注文を受けたという。
2月上旬。のれんを下ろした店内で、内藤さんに心境を尋ねた。ためらうことなく、「ほっとしました」との答えが返ってきた。「涛々」は長年、家族ぐるみのつきあいがある老舗「鍵善良房」(東山区)に引き継いでもらうという。「菓子が残るのが何よりです」とかみしめるように話した。
「一つだけ、心残りがあります」。内藤さんは薯蕷饅頭を得意としてきたが、今年は品質のいいつくね芋が手に入らず、満足できる出来の饅頭が作れなかったという。「いつも楽しみにしてくれたお客さんに、最後に会心の薯蕷を食べてもらいたかった」
職人気質の店が、京都から一つ、消えた。