栃木県栃木市にある『安部どうぶつ脳神経外科クリニック』。完全予約制で診療は平日の夜間のみ。その名の通り脳神経外科専門病院ですが、ここで行われるのは診察と簡単な検査、薬の処方だけで、MRIやCTによる詳しい検査と手術は埼玉県所沢市の『日本小動物医療センター』で実施されます。執刀医は『安部どうぶつ脳神経外科クリニック』院長である安部欣博(よしひろ)獣医師なのですが…。
なぜ、このような複雑な形態になっているかと言えば、同クリニックは元々ある動物病院を夜間に“間借り”したもので、安部獣医師は日中、『上都賀総合病院』(栃木県鹿沼市)で脳神経外科部長を務める医師、つまり人間のお医者さんだから。医師と獣医師、両方の免許を持ち、獣医師としてはフリーランスの立場で小動物医療センター以外にも北海道、宮城、東京、大阪の病院から依頼を受けてメスを握っているのです。
1999年、安部氏は酪農学園大学獣医学部獣医学科を卒業し、獣医師免許を取得しました。しかし卒業間際のある出来事をきっかけに、医学部への再入学を決意します。
「実習していた動物病院に電車に轢かれたシーズーが運ばれてきたんです。頭蓋骨骨折で神経症状が出ていました。ケージの中をグルグル回っていたのですが、点滴を打たれただけで結局、安楽死。これは治療じゃないなと思いました。当時、脳については授業でもほとんど触れられていませんでしたし、そもそも頭を積極的に治療するという概念がありませんでした。誰もやっていないことをやらなければならないと、人の医学部で脳神経外科を学ぶことにしたんです」(安部氏)
翌春、獨協医科大学医学部に一般受験で再入学すると、すぐに脳神経外科の教授を訪ね、「僕は動物の脳外科医になるために人間のほうでしっかり学びたい」と宣言したそうです。以来、日中は授業と実習、夕方から夜は動物病院でアルバイトという生活を6年間続けました。
「楽しかったですね。医学部の授業では専門医が専門分野について教えてくれます。そこで学んだことを動物病院で実践する毎日でした。専門医の知識は深く、実践すると動物たちが良くなっていくんです。治療をしっかり行う上で、専門医の知識が非常に重要であることを嫌というほど学びました」(安部氏)
卒業後、医師免許を取得した安部医師を待っていたのはハードな脳神経外科研修医としての日々でした。母校の脳神経外科の医局に入ったのですが、「寝る時間がなくて、よく電子カルテの前で倒れていました(笑)。入局して3カ月目にこのままでは殺されると思い、やめようと思ったくらいです」と振り返るほど多忙を極め、動物の診療は全くできなくなったと言います。それでも年間800例以上の手術を行う病院で経験を積み、数年後に「ある程度の自信がついて」(安部氏)再び獣医療の現場へ。『釧路動物病院』で執刀を始めると、その後は全国各地の病院から“知識”と“腕”を求められるようになりました。
「私の医局は血管障害、脳腫瘍、脊椎脊髄、てんかん、血管内治療など、脳外科の中でもさらに各分野の専門家が集まった集団でした。特に血管障害専門の先生は、いつも“神の手”のような手術をしており、この先生の執刀を見るたびに私は絶望していました。私は決して神の手を持つ者ではありませんが、独学ではなく各専門医から知識を学び、しっかりと訓練を受けた脳神経外科専門の獣医師であることは間違いありません」(安部氏)
脳腫瘍の治療で重視しているのは「正確で厳密な診断」(安部氏)。そのためには手術で取り除いた病変の一部を顕微鏡で観察し、確定診断を下す病理組織診断が重要になってきますが、安部先生はこの検査を「獣医病理」と「ヒト病理」の両方行っているそうです。
「動物の脳腫瘍病理診断は、まだ人のようにきちんと分類されていない状態です。人の脳腫瘍専門病理医が脳腫瘍を厳密に分類し、動物の病理医が動物ならではの所見を加味することで、より正確な診断ができると考えています」(安部氏)
こうした人脈を生かせるのもダブルライセンスを持ち、医師としても活躍している安部先生ならではと言えるでしょう。
学生時代に掲げた目標通り「獣医療における脳神経外科のパイオニア」となった安部獣医師は、全国の愛犬家、愛猫家に向けてこう話してくれました。
「頭に何か病気が見つかったらとにかく一度、相談してください。かかりつけの獣医さんから手術や治療は無理だと言われてもあきらめないで。まず正確な診断をして、その上でどのような治療があるのかを説明することができるのは専門医だけです。もし手術をする場合でも、危険な部位を絶対に傷害しないという訓練を受け、安全に腫瘍を摘出することができるのも専門医だけです。私が執刀する手術は平均6~7時間、最長で13時間半掛かりますが、人の手術と同じように傷害してはいけない血管を厳密に確認しながら行っているからです。もちろん、手術ができない部位や治療が難しい症例もあります。飼い主さんと相談し、看取るという選択肢も立派な医療ですが、飼い主さんにはかなりの負担が掛かります。最終的には、けいれん発作の重責などを起こす可能性もあるので、ヒトで使用するような新規抗てんかん薬なども含めて対処法をご提示できると思います。全国各地どこからでもかまいません、ぜひメールでいいので相談してください」(安部氏)