ギンズバーグ氏が米国民に広く受け入れられた理由は、氏が、強く聡明であるだけではなく、信念と志を持ち、パワフルでしなやかで、差別される者(自らも差別されてきた者として、その気持ちが存分に分かり)に当然に寄り添い、そして、真に公正な考えで、きちんと結果を出してきた、ということがあるのではないかと思います。
我が国でも、女性活躍問題など、様々な課題の解決を考えるときに、私はこの「しなやかに」そして「真に公正な考え」というのが、非常に重要ではないかと思っていました。
ギンズバーグ氏は、女性が、進学や就職はもとより、自分名義でクレジットカードを作ることさえできなかった時代に、がむしゃらに主張して対立するのではなく、性差別を理解しない最高裁の同僚判事に「幼稚園の先生のように」教え諭したといいます。価値観の大きく異なる相手や社会に対して、どうやったら、その考えを変えてもらうことができるか、普遍的な示唆があるように思います。
そして、ギンズバーグ氏のやり方が素晴らしいのは、「女性の権利を擁護しろ!」と声高に主張するのではなく、「男女間の『生得的な違い』は称えるべきものであり、いずれかの性別に属する人への侮辱や、個人の機会制約の根拠とはならない」と指摘したこと、性別に関する固定概念や異なる待遇が、男性側にも悪影響を与えていることを指摘するという方法を採ったことだと思うのです。
ギンズバーグ氏が是正した法律の中には、例えば、妻を亡くした男性の遺族年金受給を認めないもの(妻の収入というのは副次的なものであるから)、アルコールの購入可能年齢を、女性18歳・男性21歳としていたもの(女性は18歳で飲酒しても問題を起こさないが、若い男性は飲酒すると危険な振る舞いをするかもしれないから)があります。こうした判決が先例となり、『性別に基づいた区別』に関するその後の司法判断が厳格化し、結果として、女性の権利向上にもつながったと言われています。
“Fight for things you care about but do it in a way that will lead others to join you.” (自分が大切にしているもののために闘いなさい。ただし、他の人たちが、あなたに賛同するような闘い方でね。)
・・・米国留学時に、ギンズバーグ氏に感銘を受けて以来、胸に刻んでいます。
ちなみに、夫のマーティー・ギンズバーグ氏も、これまた素晴らしいのです。彼は、NYのコロンビア大学で終身の教授職を得ていましたが、ルースが1980年に連邦控訴裁判所判事に任命されると、仕事を辞め、共にワシントンDCに引っ越し、新たな仕事に就きました。料理が苦手なルースのため、料理はマーティーが一手に担い、他の最高裁判事の妻たちとの付き合いも、積極的にやっていたといいます。マーティーは全面的にルースを応援し、そのための協力を厭いませんでした。そして、そのパートナーシップは、決して一方的なものではなく、ロースクール時代にマーティーが病気になった時、ルースは彼の分までノートをとり、レポートをタイプし、マーティーのキャリアのためにハーバードの学位を諦めました(NYで就職した夫のために、ボストンを離れ、コロンビア大学に移りました)。
ふたりは、真に対等で、互いを尊重し、成長を支え合っていました。それが1930年代生まれで1950年代に結婚した二人の間で行われていたということに驚きます。
マーティー氏は、”I have been supportive of my wife since the beginning of time and she has been supportive of me" "It's not sacrifice; it's family.”(僕は、最初の最初から妻を支えたいと思ってやってきたし、彼女も同じように僕を支え続けてくれました。それは犠牲じゃない。家族だということです)と述べています。
・・・敬意と感銘と、様々な自戒とを込め、筆を置かせていただきます。