自死が起きたとき、残された人たちは、どういう気持ちであったのか考えさせられ、理解しようとします。人の行動の動機は様々な要因が絡み合っているため、本当の意味での動機は本人にしか分からず、また本人ですら分からないということもあります。
自殺を社会学的に考察したエミール・デュルケームは、自殺について、自我が強くなり、社会とのつながりが減少し、孤立する中で起こる「自己本位的自殺」、集団の帰属意識や結束力の強い文化の中で起こる「集団本位的自殺」、自らの欲求が高まり、それが到達できないことによる幻滅や焦りから生じる「アノミー的自殺」に分類しました。
生活が豊かになるにつれて個人が思索的に考える時間は増えており、各々の感性は敏感になってきています。生き方は多様化しており、個人と社会とのバランスが上手く保てなくなっているのかもしれません。
死という現象は、すべての生命に共通して生じる現象であり、生まれた者の宿命ともいえます。
ある小さな女の子に「生きる意味は何か」尋ねてみたところ、「この世界に生まれてきたから」という答えが返ってきました。人を含め、様々な動物は生まれてきたこの世界で生きることに精一杯で、目の前に起こる出来事を一生懸命に追いかけています。
人は意思やイメージを操り、将来を案じることができるようになりました。個人主義が進み、考える時間が増えているからこそ、それを受け止める社会の役割も個々に合わせて変化する必要があるのかもしれません。
一方、精神分析学には、生きようとする「生の本能(エロス)」と生命体内部の緊張を無の状態に戻そうとする「死の本能(タナトス)」という考え方があります。
死の本能は、生を作り出すためのシステムであり、細胞が老化するという現象もネガティブなことではなく、新陳代謝を起こさせていると考えることができます。
壊すことは作ることの前段階ととらえると、イメージが豊かな人であるほど、他の存在を生かすために自分を破壊するという選択ができてしまうことが考えられます。
カウンセリングでは、「死にたい」「消えたい」といった相談者が訪れます。その理由を一つ一つ丁寧に聞いていくと、「迷惑を掛けたくない」「いなくなった方がいい」「自分が情けない」といった理由を挙げ、自分が楽になるという観点ではなく、他者を意識した発言をしていることに気づかされます。
外的なプレッシャーを取り除き、本人の強い責任感を少しずつ緩和できるように考えていくと、表情はやわらいでいきます。
度々パニックを引き起こすAさんは、昔自分がされて嫌だったことを、逆にしてしまっているような罪悪感に陥った時に、「消えた方がいい」という考えにとらわれています。
昔相手にぶつけたかった思いを自分に向けており、「このモードに一度入ると、自分で自分を抑えられなくなる」「周囲の声掛けも耳に入らなくなる」と語ります。
こうしたモードでは現実的な対応や考えるエネルギーが枯渇しているため、「寂しかったね」「辛かったね」といった共感的な声だけが心にアクセスすることができ、現実に戻ることができます。
精神的に疲弊しているときは、ネガティブな考えに陥りやすいため、思い切り泣いて、何も考えないというのもシンプルな解決法になります。
自殺未遂を図ったBさんは「悩んでいる本人が自分から相談しないと分からないと思う」と語りました。「逃げたい気持ちでいっぱいで、他のことは何も考えられなかった。」と当時を振り返りました。
生まれたばかりの赤子は誰かの手を借りなければ生きていけないように、人は常に誰かの助けを必要としています。人に頼ろうとせず、周囲に心配されても、「大丈夫」と気丈に振舞ってしまう人ほど注意が必要です。
物質的な豊かさが、かえって孤立を深め、人とつながっていく力を弱めてしまう可能性も考えられます。
私たちは何のためにこの世界に生まれてきたのか、それを考えようにも、宇宙の真理を解き明かさない限り、明確な答えを出すことは困難です。生命である限り、死に向かって生きているとも考えることができます。先を考えても不安に陥り、今ある生命を感じることができなくなってしまいます。
たまには何も考えずに今できることに目を向け、ホッとできるような居場所を作り、誰かと時間を共有することが大切です。