「ゴジラは私の同級生。そして聖獣」…戦後75年、俳優・宝田明が語る「ゴジラはなぜ誕生したのか?」

北村 泰介 北村 泰介

 戦後75年の夏。俳優・宝田明は11歳だった終戦の年に旧満州でソ連兵に銃撃される体験を経て、9年後の1954年、東宝の第6期ニューフェイスとしてデビュー。同年公開「ゴジラ」第1作の主役に抜てきされた。「ゴジラは私の同級生」と自認する宝田が当サイトの取材に対し、自身の役者人生と戦争を語った。

 日本映画の全盛期、五社協定の時代にあって宝田は東宝の看板スターとして多忙を極めた。「毎年13-15本の映画に出させていただき、毎日、2本の映画を掛け持ちで撮影していた。三船さんは年間1本で『お前、うらやましいな。きれいな女優さんと一緒に、毎年10本以上も撮りやがって』と言われました。森繁さんは駅前と社長シリーズがあり、その後、加山雄三が若大将シリーズをやりましたが、僕の本数には及ばなかった」

 「東宝には森繁久彌、三船敏郎、池部良、小泉博、小林桂樹などキラ星のごとく俳優さんたちがいて、黒澤明、成瀬巳喜男、千葉泰樹、稲垣浩ら戦中から戦後も映画を撮られた名監督たちの元で、僕は数多くの作品を多角的にやらせていただいた。大女優の高峰秀子さん、同じ満州から引き揚げた森繁さんから、撮影所のセットや車の中で話していただいたことも心の財産になっています。恵まれた俳優生活を送って来たと思います」

 コメディ、アクション、文芸作…と幅広い作風をこなしたが、原点は「ゴジラ」だった。

 「東宝の田中友幸プロデューサーに『ゴジラって何ですか』と聞いたら、『日本は広島と長崎に原爆を落とされ、その9年後には第五福竜丸が米国の水爆実験で被ばくして乗組員の方が尊い命を亡くされた。核廃絶を叫ぶことができる国は世界でも日本しかないのだから、この映画を作るんだ』と。単なる怪獣映画ではないのです」

 8月、広島と長崎を想う。「日本は原爆で数十万人が亡くなった。一瞬で14-15万の人間をこの世から消し去るという、神の恐れを知らぬ、本当に残酷な決定を米国は下した。ゴジラは南海の底で静かに眠っていたところ、洋上の水爆実験で目を覚まして地上に現れ、最後は骨にされて海中の藻屑となる。被爆者として悲しい運命を背負っているという意味からすれば、神から送られた『聖獣』ではないか。約70人のスタッフ、キャストと試写を観終わった私は泣きました。本多猪四郎監督に『なんで泣いているんだ』と聞かれ、『人間のエゴで起こされ、海の藻屑とされるゴジラがかわいそうだ』と答えました」

 第1作は空前の大ヒット。宝田は「当時、日本の人口8800万人のうちの11%強、961万人が見てくださった。当時の日本人は、核爆弾の恐怖というものを感じ、核廃絶を願っていたのだということがその数字にも表れていると思います」と振り返る。

 ゴジラ映画シリーズは50年間で28本が製作され、宝田は第28作までの計6本に出演。「ゴジラとは宝田明にとって何か」と問われると、「私のクラスメート。同級生です」と答える。「これほど共感を持たれた動物はいない。米国の映画殿堂入りした日本の俳優は三船敏郎に続いてゴジラですから。今後、ゴジラの作品に出ることになったら、彼とはアイコンタクトで『世界で紛争が起きている場所に行って、平和を求める一助となってくれないか』と伝えたい」

 現在、全国順次公開中のドキュメンタリー映画「沖縄戦 知られざる悲しみの記憶」でナレーターを務める。宝田は数多くの出演映画から「世界大戦争」(61年公開)を語った。

 「フランキー堺、乙羽信子らが出ていて、第3次世界大戦が起き、核兵器による世界消滅の危機において、僕が、星由里子演じる婚約者と戦争についての話をするんですけど、その時に伝えたい文言を足していただいた。『これからの若い人たちが戦争で命を落とすことがあってはならない』と。私が満州で育った頃、中国大陸では一般民衆を銃剣で刺したり、『試し斬り』と称して日本刀で次々に首を切るといった出来事が写真と共に残っています。戦争では狂気の世界が起きるんです。知性や教養もどこかに吹っ飛んでしまう」

 一昨年に著書「銀幕に愛をこめて ぼくはゴジラの同期生」(構成・のむみち)を出版。満州引揚げから60数年に及ぶ俳優人生を描いた。「ゴジラが70周年の古希を迎える2024年に私は90歳の卒寿。同級生のゴジラと共に平和の大切さを伝えていきたい」。記者が渡したその本に、宝田は「不戦不争」としたためた。

 =文中敬称略=

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