長嶋巨人のエース左腕として活躍し、その後、韓国プロ野球、野村ヤクルトなどで25年間もプレーした新浦壽夫さん(69)。彼の野球人生は波乱万丈そのものだ。静岡商の「1年生エース」として甲子園準優勝。韓国籍だったことから中退し、ドラフト外で巨人入り。8年目に長嶋茂雄監督と出会い、ようやく才能を開花させたが、その裏には悔し涙を流した夜もあった。
小田急線「新百合ヶ丘駅」で合流すると、新浦さんが駅前の喫茶店に案内してくれた。帽子をかぶり、おしゃれな格好。現役時代の頬がこけて悲壮感に満ちた面影はなく、ふっくらとした顔つきだった。
現在は無職。つい最近までは母校の静岡商や元近鉄の大石大二郎さんが監督をしていた社会人野球のジェイプロジェクト(名古屋市)でピッチングの指導をしていた。
「いまの若い子は押しつけてはダメ。でも、甘えさせないためにも私のあらゆる体験を話すんです。私も怪我で苦労しましたからね。怪我をしないための強い練習です。しかし、いまはコロナで子どもたちと会えなくなって寂しいです」
その半生は運命にほんろうされ続けた。1968年夏、静岡商の「1年生エース」として甲子園準優勝。だが、韓国籍(のちに帰化)で外国人扱いだったことから日米9球団による争奪戦へ。最終的には高校を中退しドラフト外で巨人に入団する。一連の騒動は65年に導入されていたドラフトのルール見直しのきっかけとなった。
「日本語しか話せないのに日本人ではない。小さいころから履歴書などを見て、自分のことは知っていました。私の人生はいつもだれかに決められてきたんですよ。プロ入りも韓国プロ野球行きも」
71年1軍デビュー。その後、ローテの一員として頭角を現しかけていたが、ターニングポイントとなったのが長嶋茂雄監督1年目の75年だ。この年、37試合に登板し、2勝11敗。“ノミの心臓”と揶揄され、チームも初の最下位となったが、長嶋青年監督は明けても暮れても未完の左腕を使い続けたのである。
「監督は確かに、就任してすぐ『お前をエースにしたい』と言ってくれました。でも、あの年は出れば打たれるの繰り返し。『新浦に投げさせるな。やめちまえ!』とヤジが飛ぶようになり、最後の方は私が登板すると、お客さんが帰り始めたんですよ。これはショックでした。実は一度だけ後楽園のゲームのあと、泣いたことがある。さすがに、悔し涙が止まらなかった」
指揮官にしてみれば、素質にホレ込んでのいわば“愛のムチ”だったが、当人にはたまったものではなかったようだ。「ベンチで目が合うと『新浦、行け!』となる。なぜ、私ばかり使うのかと恨んだもんです。もちろん、使ってくれた監督には感謝していますが」
8月は一度2軍落ち。その後、1軍へ復帰すると31日のヤクルト戦で1安打完封。この年の初勝利を挙げると、翌76年の飛躍につながっていくわけだが、2月のキャンプ中に長嶋監督との間でこんなやり取りがあったという。
この年正月、新浦さんは一念発起し「心と体のバランスを良くするために禁煙」を宣言。監督室に呼ばれた際に「僕、タバコをやめました」と伝えると、長嶋さんからは「やめる必要ない。これ以上体重を増やすな。ケツの穴から煙が吹き出すまで吸え」と予想外の言葉が返ってきたという。
その効果ではないにしろ、76年から4年連続で2ケタ勝利をマークし、最優秀防御率、最多セーブなどタイトルもつかんだ。特に78年には130試合制にも関わらず63試合に登板。15勝15セーブと鬼のような働きをしている。
しかし、それも束の間だった。78年に江川卓が入団。小林繁さんとの“トレード”だったが、私の取材では当初、阪神は左投手がほしいと新浦さんを交換候補にしたところ「それだけは譲れない」と長嶋監督が阻止したとされる。それなのに…。
「突然『江川をエースにしたい』と僕に言うんですよ。エエッ、と思いましたよ」と長嶋監督らしいひょう変ぶりに驚いたという。
その後は浪人時代の長嶋さんから「巨人の野球を伝えてくれ」と一方的に言われ、84年から韓国プロ野球サムスンへ。3年間で54勝20敗、特に85年には25勝6敗の好成績を残した。「あのころの韓国プロ野球は巨人でやっていた細かい野球が理解できていなかった。それが分かりだしたのは私が日本に帰ってから。子どもたちもそう。いろいろ教えても後から価値に驚くのです。時間が掛かると言うことです」
87年、35歳で日本球界に復帰後は効果的にチェンジアップをちりばめる技巧派に変身し、横浜大洋(現DeNA)で11勝を挙げ、カムバック賞を獲得。その後、ダイエー(現ソフトバンク)を経て、92年ヤクルトの優勝を見届けてユニフォームを脱いだ。
国内通算116勝。仕えた監督は川上哲治、長嶋茂雄、藤田元司、古葉竹識、須藤豊、田淵幸一、野村克也の7人。「節目節目で様々なタイプの監督さんとの出会いがあり、いまの指導に役立っています。特に引退間近の野村ヤクルトで優勝に貢献できたのはいい思い出。逆に何も得るものがなかった監督もいますが…」
帰り際、新百合ヶ丘駅の改札まで送ってくれた新浦さん。振り返ると、その背中はやはり大きかった。