元巨人の「トリプルスリー男」が球界を去った理由 いまはゴルフのレッスンプロ

あの人~ネクストステージ

吉見 健明 吉見 健明

 走攻守3拍子そろったオールラウンダーとして阪急、巨人で活躍し、引退後は巨人のコーチ、デイリースポーツ評論家を務めた簑田浩二さん(68)。現在はプロ野球界から完全に離れ、東京・浅草橋の「友愛ゴルフアカデミー」でレッスンプロ(日本インストラクタープロゴルフ協会認定)に専念している。1983年に30年ぶり史上4人目(当時)の「トリプルスリー」を達成したレジェンドはなぜ、球界を去ったのか。

  JR総武線浅草橋駅西口から徒歩1分。雑居ビルの2フロアを占める室内ゴルフ練習場で簑田さんはバットでもグラブでもなく「クラブ」を持ち、レッスンに飛び回っていた。室内のTVモニターに流れるのは、野球ではなく日本女子ツアーの映像だ。

 「コロナの影響でいまは落ち着いていますが、女子プロ人気の影響か、初心者の体験レッスンが2、3年前からかなり増えてます。企業のコンペに呼ばれてラウンドレッスンをしたり、現役時代から性に合っていたゴルフで生活できるのは幸せなことです」

 レッスンは生徒のスポーツ経験を聞くことから始めるという。「腕だけに力を入れて右肩を前に出して打ちに行く人が圧倒的に多いので、経験されてきたスポーツに例えてアドバイスします。野球はもちろんサッカーでもバドミントンでも剣道でも、一番力が出せる体の使い方にはゴルフと共通点がありますから」

 現役時代はオフシーズンはもちろん、シーズン中もこっそりゴルフの練習に通っていた。「バッティングの調子が悪いとき、その原因が分かるんです。シャンクが続くと左の壁がないとか右肩が突っ込んでいる、腕に力が入って間が取れていない、というふうに」

 1975年オフ、三菱重工三原からドラフト2位で入団した当時の阪急は、福本、大熊、マルカーノ、加藤秀らそうそうたる選手がそろった黄金時代。簑田さんに転機が訪れたのは入団2年目の77年、巨人との日本シリーズだった。阪急2勝1敗で迎えた第4戦。1点リードされた9回2死、一塁走者の代走に起用されると、いきなり二盗に成功し、高井の左前打で強引に本塁へ。タイミングは完全にアウトだったが、巧みにタッチをかわす見事なヘッドスライディングで同点とし、その後チームは逆転。翌日の日本一につなげる好走塁となった。

 「レフトからノーカットなら完全にアウト。しかし、サードがカットし、その返球が少しそれたおかげでセーフになった。運命です。ラッキーが重ならなければ、暴走ですぐクビになっていたかもしれません」

 翌年から2番・左翼のレギュラーに定着。80年に31本塁打、39盗塁、31犠打を記録すると83年には打率.312、32本塁打、35盗塁をマークして30年ぶりに「トリプルスリー」の快挙を達成した。同時に外野手として驚異の17補殺も記録。「打ってヨシ、走ってヨシ、守ってヨシ、顔までヨシ」と脚光を浴びた。

 「世界の盗塁王・福本さんの盗塁術を学び、投手と打者の兼ね合いで守備位置を工夫した。打撃では、福本さんが2塁に盗塁するまで打てないので、ほとんど2ストライクに追い込まれた状態。ライト方向に進塁打を打つ練習ばかりしていました。その過程で下半身を回して左肩は開かず、バットに仕事をさせ飛距離を出す体の使い方も身につきました。これがいまのゴルフレッスンにもつながっています(笑)」

 85年は開幕直後にアクシデントに見舞われた。頭部死球を受け、以降ケガが続き全盛期の打撃ができなくなる。功労者に球団は冷たかった。

 「そもそも入団の時に『4年辛抱しろ。その間に一人前になれば給料を上げてやる』と約束され、黙ってがんばってきたのに近鉄の栗橋とか他球団の同期と比べても年俸提示が安かった。頭に来て、打率が低いのは2ストライクまで打てなくて1球勝負だからだと、主張したら急に2000万円から2700万円に一声で上がったりした。査定は一体どうなっているんだと思ったものです」

 選手会の役員としては選手の待遇改善に尽力。「自分の給料より先に、どのメーカーの用具でも使えるようにしてほしいなどと契約の席で要望していた。そんなことも球団にうるさがられたのかもしれません」

  87年、藤田元司監督に請われて金銭トレードで巨人入りする。「77年日本シリーズの走塁の話なども若手にしてほしい、と言われました。藤田さんは親分肌のすばらしい監督でした」

 89年の日本シリーズで簑田さんは再び好スライディングで巨人の日本一に貢献する。近鉄に3連敗し、あとがない状況。藤田監督から「明日、頼むな」と送り出されると、翌日先頭打者としていきり二塁打を放つ。1死三塁となり、岡崎がセンターへ浅いフライを打ち上げると簑田さんは本塁を狙った。

 「流れを変えるためにイチかバチかのタッチアップ。完全にアウトのタイミングでしたが、うまくタッチをかわし12年前と同じように左手の指先で生還することができた」

 これが決勝点となり、そこから巨人は4連勝。銀座での日本一パレードは簑田さんにとっては最高の思い出のひとつだという。90年のシーズン中、藤田監督にコーチ就任を打診されて現役引退を表明。その後、95年までは一軍総合コーチ、一軍外野守備・走塁コーチなどを務めた。

 「95年、あの年は打撃不振でチームが3位に終わったのに、外野守備・走塁コーチの私と須藤豊ヘッドコーチだけが責任を取れと言われました。読売系列の新聞とラジオの解説者を紹介されたのですが、筋が通らないからと、短気を起こして固辞してしまいました」

 20年間のユニフホーム生活を終えて、デイリースポーツやテレビ東京の評論家となった簑田さんは、その後ゴルフでシニアプロを目指すようになる。

 「ゴルフは良くも悪くも責任はすべて自分。そこが魅力的でした。シニアプロテストは2回ほど挑戦したのですが、数打及ばず。その後制度も変わって受けにくくなったので53歳のとき、レッスンプロになりました」

 レッスンに熱中するうちに、ますますプロ野球界と疎遠に。「うるさいことをつい口にしてしまう私のような人間には声がかからなくなりました。いまはゴルフですら球界の人間とほとんどやらなくなりました。ただし、野球もゴルフも人に教えるのは本当に難しいです」

  ベストスコア63。いまはヘッドスピード43キロ、飛距離もランを入れて240ヤード程度だそうだが、それでも所属クラブのハンデは0。さすがに頭には白いものが混じっているが、体形は現役時代とさほど変わらず、ダンディぶりに磨きがかかっている。

 いまでは「トリプルスリー」と言えば、ヤクルトの山田哲人、ソフトバンクの柳田悠岐を思い浮かべる人が多いが、中西太(西鉄)以来30年ぶりに、この記録を甦らせ、認知度を高めたのはこの人。ゴルフスイングを見ていると、力の抜けた自然体の構えから、しなやかなバットコントロールと見事な体の回転で、西宮球場の左翼席に白球をライナーで打ち込む現役時代の姿が甦ってきた。

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