庶民的なスーパーマーケットと比べて、百貨店は売り場の雰囲気や店員の動作などに高級感を醸し出している。売り場フロアでは、店員どうしのちょっとした会話でもお客さんの耳に入りやすい。聞かれたくなかったり、不愉快な思いをさせたりしないための用語・隠語が工夫されている。
勤務中に「遠方に行ってきます」って、どこまで行くの?
高級感ある百貨店とはいえ、そこで働くのは人間だから、生理現象も同じように襲ってくる。しかし、あからさまに「トイレに行ってきます」というのは、売り場の雰囲気を壊したりお客さんの気分を害したりしかねないから、独自の隠語を使って悟られないようにするわけだ。
某私鉄系の百貨店で勤務した経験のあるUさんに聞いた。
「百貨店業界に共通の用語は、ほとんどありません。系列ごとに違います。たとえばトイレのことを、関東で大手の老舗百貨店では『遠方』といいますし、関西の私鉄系百貨店では『紫』といいます」
トイレがなぜ「遠方」なのかは語感からなんとなく分かるのだが、一方はなんで「紫」なんだろう。
「昔からそうなっているとしか……(苦笑)」
ちなみにこの私鉄系百貨店では、ほかの隠語も色で表すという。お昼休みは「白」、休憩は「緑」なんだそうだ。
トイレ関係が続いて恐縮だが、「関東の私鉄系百貨店では『すけんや』とか『つきあたり』と呼んでいます」
「すけんや」って何が語源?
「それも、そうなっているとしか……(苦笑)」
ほかには、お昼の食事を「のじ」「サンサン」「じんきゅう」「けし」など、系列ごとに見事にバラバラである。
金印(きんじるし)の川中さんが来ました。補充をお願いします。
販売業につきまとうリスクのひとつに、万引きがある。店員は、犯行現場を現認しても、店内では絶対に声をかけてはいけない。百貨店は売り場ごとの対面販売だから、商品をもったまま売り場を離れることがすでに怪しいのだが、「ほかにも見ておきたい商品があるから、ちょっと離れただけ」とトボケられたり「人前で恥をかかされた」と開き直られたりしたら、最悪の場合は人権侵害で店側の落ち度になりかねない。
そういうときは「あの人、金印かも」とか「川中さんがお見えです」と連絡しあい、警備員にも通報する。ある百貨店では、警備員に店内巡回を強化してほしいときは、店内放送で「補充をお願いします」というそうだ。
そうして監視をつづけ、商品をもったまま店を出たところで「もしもしお客様、精算をお忘れになっている商品はございませんか」と声をかけるわけだ。
では、万引きがなんで「川中さん」なのか。
「“買わなかった客”が訛って『かわなか』った⇒『かわなかさん』に変化したと聞いています」
別の百貨店では「赤井様、2階にお越しください」という館内放送が流れたら、2階で万引きを現認したことを意味する。また、犯行には及んでいないけれど、挙動が不審だったり見るからに怪しい態度をとっていたりしたら「桃井様が2階でお待ちです」となる。「桃」だから「赤」になる一歩手前という意味らしい。
万引きと双璧をなす迷惑客といえば、苦情の多い客、いわゆるクレーマーだ。納得して買ったはずの商品になにかと苦情を申し立てて、あわよくば金品をせしめようとする客のこと。理不尽な苦情がつづく客は、店側でチェックしている。
江戸時代に呉服商として創業した老舗百貨店では、そのような客の姿を見つけると「こないだのウロ前、来てるよ」とか「丸苦(まるく、マルキューと訛ることも)さん、来てます」と素早く情報が回って神経を尖らせる。
余談ながら、用語や隠語ではないけれど「サインミュージック」というものがある。例えば雨が降り出したときに傘袋や傘立てを準備するために、店内のスタッフに知らせる音楽で、雨にちなんだ曲がよく選ばれるようだ。店内のBGMが急に「雨にぬれても」や「悲しき雨音」に変わったら、外では雨が降り出したと思えばいい。
逆に、雨がやんだことを知らせる音楽は、とくにないらしい。