「京都は空襲がなかった」という誤解 西陣織の街に落とされた爆弾の爪痕

浅井 佳穂 浅井 佳穂

 戦時中の話になると、「京都は空襲がなかった」とよく言われる。最近もツイッターで話題になっていた。しかし、京都市内には米軍の空襲が少なくとも5回あり、犠牲者も100人ほど出ている。その中で最も被害の大きかったのが、織物産業で有名な西陣地域が狙われた西陣空襲だ。当時の被害は今も、地元住民が大切に語り継がれている。この夏、その活動の一環で行われた街歩きに参加した。この京都の片隅であった空襲について紹介する。

 1945年6月26日。季節は梅雨時期だったが、京都は晴れていた。午前9時40分ごろ、1機のB29が京都市上京区上空に飛来し、1トン爆弾を7発投下した。住宅など300棟以上が被害を受け、約50人が死亡した。

 空襲から74年。織物産業が盛んだったころの下町の風情を残す西陣地域だが、空襲の痕跡はうかがえない。数少ないよすがといえば、爆弾が落ちた地域にある辰巳公園(上京区智恵光院通下長者町上ル)に設けられた「空爆被災を記録する碑」くらいだ。

 石碑の前では毎年6月、空襲のあった日に合わせ、当時を記憶する人や地元住民らによる追悼の献花式が催されていたが、今年は見送られた。その代わり、地元の有志らが6月下旬に爆弾が落ちた地点をたどる街歩きを企画した。

 地元の歴史に詳しい古武博司さん(74)が地図のコピーを見せ、空襲のあった範囲を紹介する。爆弾が投下されたのは、400メートル四方の範囲だ。さらに上京区の「まちづくりアドバイザー」松井朋子さん(44)が「出水校百年史」など小学校の記念誌の記述を元にした資料を配布した。石碑のある辰巳公園がスタート地点だ。

 周辺には爆弾が落ちた場所が点在している。松井さんによると、公園の西隣には酒店があり、家族8人が犠牲となった。さらに北に50メートルほどいった付近には牛乳店があり、経営者の妻が亡くなったほか、荷車を引いていた馬も死んだ。公園から約300メートル南東には薬局があり、経営者の家族と従業員の合わせて4人が犠牲となった。

 空襲があった地域の最南端に昌福寺がある。境内に落ちた爆弾の破片は今も、近くの老舗油店のショーウインドーに空襲の証拠として展示されている。
 全ての爆弾落下地点を巡っても、30分余りしかかからない。それほど狭い範囲で約50人が亡くなったという事実に、空襲の悲惨さを改めて実感させられる。 

 松井さんは言う。「自宅近くの人が空襲で亡くなったのを話したがらない人もいる。地元ではいまだにデリケートな話題なんです」

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