裁判所が弱者救済という正義を失った日

夜回り先生・水谷修/少数異見

水谷 修 水谷 修
水谷修氏は判決の不当性を強く訴えた(fizkes/stock.adobe.com)
水谷修氏は判決の不当性を強く訴えた(fizkes/stock.adobe.com)

 生徒や子どもたちにとって、教員は、「拒めば単位をもらえなくなる」、「受け入れなければ学校にいづらくなる」などの支配的存在です。親は、「拒めば、生活できなくなる、学校に行けなくなる」、「拒めば暴力を振るわれる」などの支配的な存在です。このような支配関係の中での弱者の、精一杯の訴えを、ただ単に現行の法律に基づいて、淡々と審理し、そして罪状を決めることには怒りさえ感じます。生活や日常を、権威や恐怖で支配されている人に、「なぜ、抵抗しなかった」と問うことには、人間性の欠片さえ感じません。

 ましてや、今回のケースは、中学校2年次からの性的虐待については、事実として認めています。裁判官は、この女性が、どれだけの勇気と思いで訴えたかを考える温かさはなかったのでしょうか。

 裁判官の仕事は、正義を守ることです。その正義は、まさに法的弱者を救済することにあると私は考えます。検察が、高等裁判所に控訴したことは、当然のことです。次の高等裁判所で、弱者救済という法の下の正義による判断が下されることを切望します。

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