電動ラジコンカーの黎明期を振り返ってみると……
ラジオコントロール、つまり無線で制御する模型を一般にラジコンといいます。実はこの「ラジコン」という名称は増田屋コーポレーションが商標権を持っていて、他の会社は製品に「ラジコン」という名前を使うことができません。なのでいまラジコンカーの世界で大きなシェアを持っているタミヤも「RC」という名称を使っています。ただ、これは商品に使用できないだけで、一般的な名称として私たちが会話その他に使う分には問題がないのだそうです。
さて、電気で動く本格的なラジコンカーの元祖とも言える、タミヤのポルシェ934が発売されたのは1976年の年末でした。それ以前のラジコンといえば、たとえば朝日通商のアトコミシリーズといったトイラジコン、またはエンジンを使った本格的な趣味のラジコンの時代。1966年生まれの筆者も小学校1年か2年の頃にアトコミ2号を買ってもらって、遊んでいたのを思い出します。
そして筆者が4年生になった頃、友達のナカノ君が親にタミヤのポルシェ934を買ってもらいました。これは車体キットで、走らせるためには別に「プロポ」というラジコン装置を買わなければなりません。それはもう大人の趣味の世界に属するアイテムです。さらに、そのポルシェは単二の乾電池を当時まだ筆者達が知らなかった「ニッカド電池」というものに交換すると、一気に倍以上速くなるという事実にカルチャーショックを受けました。
その後しばらくして、筆者も叔父にタミヤのランボルギーニ・チータを買ってもらって、ホビーラジコンの世界にデビューを果たしたのでした。
1980年頃から1984年頃まで、ラジコンブームと呼ばれる時期がありました。AYK(靑柳金属。かつてはスロットレーシングの世界で有名だった)や石政、アソシエイテッドといったメーカーから、それぞれ特徴のあるモデルが発売されていました。その後、ラジコンがどんどんコンペティティブな方向に尖っていくのに対して、より手軽なミニ四駆にブームは移っていって、電動ラジコンの世界は落ち着いていったように感じます(ちなみに「ミニ四駆」はタミヤの登録商標です)。
大人が再びラジコンに戻ってきた
コロナ禍の前後、お家時間の増加が影響したともいわれますが、いまは中堅世代になったかつてのラジコン少年の間で、再びラジコン熱が高まっているようです。
筆者は仕事柄、いわゆるクリエイターと呼ばれる皆さんと繋がる機会が多いのですが、ある日知り合ったデザイナーのおしるこさんという方から「ラジコンやりましょう」と誘われました。
おしるこさんは自称、ミニマリスト。2018年の大阪北部地震をきっかけに、もっとシンプルに生きよう、と思い立ち、身の回りのものをどんどん処分されたそうです。そんなある日、クリエイターの仲間から「シンプルなライフスタイルはいいけど、そんなそっけない生活ってクリエイターとしてどうやねん?」と問われ、やはり何か自分を触発してくれるような趣味も必要かな、と思案して、そうや、ラジコンを始めてみようと。そこからはまってしまったんだといいいます。
おしるこさんはゆるく楽しみながらも積極的にレースにも出るタイプ。ラジコンは毎年新しいモデルが出るので、レースをしていると性能やレギュレーションの関係もあり、次々に新しいものが欲しくなります。しかしミニマリストを目指す一面もあり、モノを増やすのは避けたいという思いで、とりあえず古い物をどんどん売って入れ替えていくスタイルを貫かれています。
ラジコンの聖地・静岡にも度々遠征されるおしるこさん。主宰するおしるこラジコン部のメンバーを増やして、みんなで遠征できる日を夢見ているそうです。
メンバー100人を目指して、仕事で関わる様々な人々に「ラジコンやりましょう」の声がけをされています。
おしるこラジコン部は毎月一回、大阪市内などでユルい走行会をしています。マーキングの小物を利用した簡単なコースと合わせ、スケボー用のジャンプ台も。これ、かなり大きなモノですが、これをキャリアに乗せて地下鉄でやってくる姿におしるこさんの「ラジコン愛」を感じるとともに、まだ若いのに部長としての威厳を感じ(?)ます。
定年退職後、特に男性は友達作りや趣味探しに悩む方が多いと言われます。車両の製作やデザイン、操作の練習など、趣味としての奥が深く、さらに仕事の関係を離れてフラットな繋がりを楽しく築いていけるラジコンという趣味は、もしかすると素晴らしい解決策の一つなのかもしれません。