神戸出身の平松愛理さん、復興支援の原点は医師の父 17日に支援ライブが5年ぶり復活「記憶語り継ぐきっかけに」

小森 有喜 小森 有喜

1月17日で、発災から30年を迎えた阪神・淡路大震災。神戸市出身で、「部屋とワイシャツと私」などの楽曲で知られるシンガーソングライター平松愛理さんは同日、復興支援のチャリティーライブを開く。震災後から長年続けていたライブが5年ぶりに“復活”する形だ。平松さんは「震災を歴史の年表のただの1行にしないため、思いをはせる場にしたい」と話す。

1995年、平松さんが全国ツアーを巡っているさなかに震災は起こった。神戸市須磨区の実家は全壊、アマチュア時代のバンド仲間をはじめ知人も亡くなった。

当時、変わり果てた神戸のまちの姿を目の当たりにした時の印象について、平松さんは「まちがモノクロになっていた」と表現する。がれきの中、粉塵を防ぐためマスクをした人々が無言で往来し、「ザッ、ザッ、ザッ」という音だけが響いていた。「色んな建物が潰れ、傾いていて。あまりにもショックだった」。自分を育ててくれ、ふるさとが大変なことになっているのに「自分は直接は被災していない」という複雑な思いにも苛まれたという。

何とかたどり着いた神戸市須磨区の実家は全壊していた。それでも、医師である父はすぐに隣家の一室を借り、診療を続けていた。散乱した家屋の中から薬や点滴袋を拾い集め、けがをした人の手当てを行った。「父は、かかりつけで診ていた患者さんのこともすべて頭に入っていたはず。『◯◯町の◯◯さんに◯日までにこの薬を渡さないといけない』と奔走していました」。

震災の惨禍の中でアーティストとしてどう振る舞うべきか葛藤もあった平松さんだが、そんな父の姿に影響を受けた。まちで出会った人に「平松さんには歌で神戸を励ましてほしい」と声をかけられたことにも背中を押された。「神戸の街や皆さんを、どうにかして応援していけないものか」と、復興支援ライブやチャリティーソングといった活動を開始。淡路出身である作詞家阿久悠さんの呼びかけで、「美(うま)し都 ~がんばろやWe Love KOBE~」をリリースした。

97年からチャリティーライブに「1・17 KOBE MEETING(コウベ・ミーティング)」というタイトルをつけた。ミーティング、という言葉には「みんなで集い、震災について考えてみませんか」という思いを込めている。自身にとって重要な活動と位置付け、収益金の一部を遺児らの支援施設「レインボーハウス」に寄付し続けた。

自身が子宮内膜症の悪化による子宮摘出、立て続けに発覚した乳癌の治療で音楽活動を休止した時期も、同ライブの開催は途切れさせなかった。開演前に立てなくなるほど体調が優れない時でも「やると決めたからには」とステージに立った。

阪神・淡路から25年がたった2020年に「神戸で学んだ助け合いの心を新たな被災地へ伝えたい」と一区切りをつけたライブを今回、“復活”させることにした。被災地支援の原点に返り、再び歌で追悼して復興支援のメッセージを届けたいという思いにかられたという。

震災直後、三ノ宮駅の近くの交差点に咲いていた一輪の花がとても印象に残っているという平松さん。「あの時の花のように少しでも誰かの心を柔らかくできるような、そんな存在でいたい。ここで歌っているから聞きたい人は聞きにきてください、そんな思いです」。

「1995年の1月17日に何があったか、ということ。皆さんが再び向き合うことは本当に辛いと思います。それでもあの時こうだったよねと思いを寄せ、次世代へと語り継いでいきたい。震災を歴史の年表の1行にしないために、私は歌でメッセージを伝えます」と話している。

「1・17 KOBE MEETING(コウベ・ミーティング)~あれから30年〜」は午後6時半開演。収益金は震災&交通遺児支援施設「神戸レインボーハウス」、「東北レインボーハウス」、「やまもと語りべの会」に寄付される。

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