高校野球の「名解説者」がセンバツ最後に引退 ファン「残念」「寂しい」素顔は某大手企業の子会社社長

京都新聞社 京都新聞社

川原崎哲也。

この名前を聞いてピンときた人は、相当な高校野球ファンだろう。2005年からNHKのテレビ・ラジオの高校野球中継で解説を務め、穏やかな口調と球児目線の温かいコメントでお茶の間に高校野球の魅力を伝えてきた。

63歳になった今年、NHKの内規で解説を退くことになった。最後に担当したのはこの春の選抜高校野球大会の決勝戦。

テレビの中継の最後に「19年間ありがとうございました」とあいさつをすると、インターネット上では「残念」「お疲れさまでした」といったねぎらいとともに「名解説者の退任に寂しい思いがする」といった惜しむ声があふれた。

川原崎さんは京都府立嵯峨野高(京都市右京区)から関西学院大に進み、社会人野球の三菱自動車京都で投手、外野手として活躍。3年間監督も務めた。

野球の現場を離れた後は社業に専念し、サラリーマンとして三菱自動車本社の人事部長に上り詰めた。現在は子会社の社長に就いている。

なぜ、社業と解説の「二足のわらじ」を履くことになったのか。どんなこだわりを持って高校野球に接してきたのだろうか。

センバツを終えた4月上旬、川原崎さんに京都市内で話を聞いた。

「甲子園は人を育てるとよく言いますが、それは本当に感じますよね。こんなプレーができるんだ、というような奇跡的なことがあの舞台では起こり得るんです」

解説に携わった19年間で担当した試合は230試合を超える。駒大苫小牧の田中将大(楽天)、大阪桐蔭の中田翔(中日)、そして花巻東の大谷翔平(ドジャース)…。後にプロで活躍する選手を何人も見てきた。

川原崎さんは出身の右京区太秦に自宅があるが、この20年来、三菱自動車本社のある東京で単身赴任生活を送っている。春と夏の甲子園大会のシーズンになると、週末を中心に京都に戻り、甲子園へ通う日々を続けた。

高校野球の解説陣に加わったのは2005年の夏のこと。NHKの解説は社会人野球の監督経験者が務めるケースが昔から多い。

川原崎さんは当時、三菱自動車京都製作所(右京区)の人事部マネジャーの職にあり、野球とは直接関係がなくなっていた。だが長年甲子園で解説していた元三菱自動車京都監督の川中彰さんの退任が近づき、後任として白羽の矢が立った。

「川中さんから『やれ』と言われ、ご推薦をいただいて…」。縦社会の野球界。断る選択肢はなかった。

慣れない解説、しかも公共放送の生中継。戸惑うことは多かった。「自分の放送を録画して後で見たり、ベテランの方の放送を見たり。しゃべり方、視点を意識して相当練習しました」と、“新人”時代を振り返る。

「あの~」「その~」といった口ぐせが放送の中で出ないよう、普段の会話から意識することも忘れなかった。解説は「シンプルイズベスト。いかに短い言葉で表現するかが大原則」と極意を語り、「漫才の掛け合いのよう」と表現するアナウンサーとの呼吸や間合いも大切にした。

印象に残った試合は数多くあるというが「100%満足して終わった試合はない。言い間違えがあったり、あの時にああ言えばよかったと後悔したり。反省の日々でした」。決勝は今春のセンバツを含め10試合ほど担当したという。「試合は生き物。想定した通りには進まないし、放送の尺もある」と醍醐味を語る。

ふるさとである京都への思いは強い。嵯峨野高時代は187cmの長身を生かしエースで4番だった。龍谷大平安高のOBで現監督の原田英彦さんとは同い年。高校時代だけでなく、社会人野球の三菱自動車京都時代にも原田さんがいた日本新薬(京都市)としのぎを削った。

原田監督は「高校時代はよく練習試合をして、川原崎はひょろっと背の大きいエースでした。三菱自動車京都が都市対抗に出場した時は、私も(日本新薬からの)補強選手として一緒にプレーしました。よきライバルであり友人。そんな関係です」と思い出を語る。

龍谷大平安高が甲子園通算100勝を挙げた2018年夏、川原崎さんは同高の試合を解説した。原田監督は「流ちょうなしゃべりで、分かりやすい解説だった」と川原崎さんの功績を挙げ、「これからは京都の野球界のため、野球少年を増やすために力を傾けてほしい。それが私たちの年代の使命」とエールを送る。

川原崎さんも同じ思いだ。「いずれ近いうちに京都に帰ってきます。京都の野球が強くなるために力を貸せるものがあれば、協力していこうと思っています」。解説の時に見せる穏やかな笑顔と口調そのままに語った。

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