「会社倒産」「自衛隊での過酷な日々」…重ねた人生経験が裏打ち 遅咲きの漫画家が描く“リアルな作品”たち

海川 まこと 海川 まこと

さまざまな漫画作品を生み出す漫画家。そのデビュー時期は人によってかなり差があります。漫画『ONE PIECE』の作者・尾田栄一郎先生は、高校在学中に「週刊少年ジャンプ」(集英社)の手塚賞(新人賞)で準入選しています。また、ゆでたまご先生が、漫画『キン肉マン』の連載を始めたのはまだ10代のときでした。尾田先生やゆでたまご先生のように若くして活躍している漫画家がいる一方で、30歳を超えてからデビューを果たしたいわゆる遅咲きの漫画家も少なくありません。

板垣恵介

例えば「週刊少年チャンピオン」(秋田書店)で1991年に連載が始まった漫画『グラップラー刃牙』の作者・板垣恵介先生は、30歳のときに漫画家を志したそうです。板垣先生は高校を卒業後に地元で就職しますが、後に退職して20歳のときに自衛隊に入隊しました。

板垣先生は、約5年間「習志野第1空挺団」に所属し、このときの経験は、のちに漫画『自伝板垣恵介自衛隊秘録~我が青春の習志野第一空挺団~』で語られています。

『グラップラー刃牙』では、格闘家や武道家以外に、主人公・範馬刃牙の父親・勇次郎と並び称される強さを持つガイアといった軍人も登場します。軍人や軍隊についてリアルに描かれるのは、自身の自衛隊での経験が活かされているからでしょう。

青木雄二

板垣先生のように自身の経験を作品に活かした漫画家といえば、青木雄二先生は外せません。1945年に京都で生まれた青木先生は、高校卒業後、神戸にある鉄道会社に入社します。しかし鉄道会社を5年後に退職し、その後は町役場やビアホール、キャバレーなど30種類以上の職を経験。1970年には作品がビッグコミック新人賞で佳作を受賞するも、連載にはつながりませんでした。

1975年には自身でデザイン会社を設立し、昼は社長業、夜は漫画制作という生活を送ります。ただデザイン会社は資金繰りの悪化に伴い、1983年に倒産してしまうのでした。

その後、1987年に「週刊漫画サンデー」(実業之日本社)に漫画『現象形態と本質』が掲載されたのをきっかけに、1990年には代表作である漫画『ナニワ金融道』が「モーニング」(講談社)で連載開始。大阪の消費者金融会社「帝国金融」を舞台にした物語は、自身の会社の倒産経験が活かされており、リアルな人間模様が描かれていました。

ハン角斉

この2人を上回る遅咲きの漫画家に、『67歳の新人 ハン角斉短編集』の作者・ハン角斉(はんかくさい)先生がいます。彼は整骨院を営みながら、漫画を描いている珍しい人物です。

彼は幼いころから絵を描くのが得意で、子どものころから漫画家を目指していましたが、高校生のときに物語が作れないことに悩み、その道を断念。柔道整復師の資格を取得して、接骨院のの仕事に集中していました。

しかし、彼が45歳のころに、尊敬する漫画家・池上遼一が若い時に描いていた絵を見て、現在の絵とのギャップに驚きます。努力をすればこれだけ変われるのかという思いがきっかけとなり、彼は再び、漫画を描き始めるのでした。そこからは整骨院の仕事をしながら、漫画を描いては出版社の新人賞に応募する日々が続きます。

なかなか評価が得られないなか、2019年に高齢者施設を舞台にした漫画『眠りに就く時…』を完成させます。「自分を信じて描けばいい」と開き直って書いた本作は、プロの漫画家にも評価されるほどのものになったのです。このエピソードは、その後小学館から発売された短編集コミックス『67歳の新人 ハン角斉短編集』にも掲載されています。

   ◇   ◇

ことわざに「災い転じて福となす」というものがあります。遅咲きの漫画家たちは漫画家になるまでの災いを含めた経験を、その後の作品に活かしており、まさに「福」となることを実現したわけです。彼らの生き様が詰まった作品を、ゴールデンウイークの長期休みに読んでみるのはいかがでしょうか。

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