幕末維新の新局面をテーマにした「幕末史紀念シンポジウム」が、同志社大今出川キャンパス(京都市上京区)であった。京都御所に迫った長州を会津や薩摩などが退けた「禁門の変」や、坂本龍馬が本名を隠して変名を用いた事情をめぐる最新の見方が専門家によって語られた。
禁門の変(1864年)について、京都女子大の中村武生非常勤講師は「深草で開戦し、兵庫にまで会津預かりの新選組が出動した」と戦線の広さを挙げ、畿内近国の譜代藩も軍事動員された大規模戦と指摘した。
その一つが譜代の丹波篠山・青山家で、1300人近くが洛中の入り口になる鷹峯口を経て、西院の二条-四条などに布陣した。「鷹峯も含めて洛中外郭ライン」に当たり、京を守る防衛線として豊臣秀吉による御土居堀が意識された状況も見えてくるという。
龍馬を研究する知野文哉さんは、龍馬が「才谷梅太郎」の変名を用いた事情を解説した。反幕府の薩長同盟(1866年)を仲介してお尋ね者になったため、「活動範囲が制限される名前を避け、ビジネスネームとして準備した」。
龍馬は、海援隊隊長の才谷を表向きに名乗ってふるさと土佐藩の仕事に関わるが、微妙な立ち位置だった。隊長として脱藩は許されても、「龍馬は出先機関に付属する外郭団体の長にすぎず、脱藩を赦免されなかった海援隊の隊士はプロパー採用」の扱い。「龍馬は公明正大に帰藩したと思っていたのに、藩での立場は非常にあいまい。これらのズレから龍馬は土佐藩邸には入れず、京都の近江屋で暗殺される伏線になってゆく」と述べた。
シンポは研究者らでつくる実行委員会が10日に催し、約50人が聞いた。