2016年に女性問題で自民党衆院議員(京都3区)を辞職し、世間の注目を集めた宮崎謙介氏(42)が京都新聞社のインタビューに応じた。「府民の皆さんに迷惑をおかけしたことは、1日たりとも忘れていない」と謝罪し、今年6月に自民党京都府連が実施した京都3区の候補者募集に手を挙げていたことを明かした。「死ぬまでには政界復帰したい」という政治への未練や、バラエティー番組に出演するようになった理由を赤裸々に語った。
―女性問題が報道されたのは京都市長選投開票日の直後だった。
まずは府民の皆さんにおわびしたい。私の軽率な行動により、皆さんにご迷惑をおかけしたことは1日たりとも忘れたことはない。妻が出産のために入院していた東京都内の病院から出た深夜、週刊誌の記者5~6人に突然囲まれた。身から出たさびだが、大声でまくしたてられてすごく怖かった。
―当初は議員を辞めるつもりはなかった。
先輩議員からも「政治と関係のないプライベートな話だ」と言われたので、辞職は考えていなかった。ただ政治不信を招いたことは確かで、報道で世論が過熱していた。自分が有権者なら辞めて当然だと思うだろうなと。記者会見を開く直前の2月12日朝、決断した。当時の安倍(晋三)首相や谷垣(禎一)幹事長もびっくりしていたが、最後は安倍首相に「出処進退は議員個人が決めることなので尊重しよう」と認めていただいた。辞めた後も精神的にしんどかった。ごはんもろくに食べられず、体臭も変わった。ひいおじいさんが亡くなる前の病室の、死臭に近いような臭いがするのが分かった。どこに行っても記者がついてくる状態が2カ月くらい続いた。
―その後は。
コンサルタント会社を立ち上げたが、1年くらいは金銭的に余裕がなかった。自宅にある時計とか商品券とか売れるものは何でも売った。新潟の妻の実家に行って、子育てをしたり、(衆院議員だった)妻の選挙を陰から手伝ったりした。新潟の人はすごく温かくて、少しずつ心が解きほぐされていった。その後は徐々に仕事も軌道に乗り、余裕が出てきた。
―タレントとしても活動している。
妻が落選したのが出演のきっかけだった。それまでずっと表に出ずにこそこそ生きてきて、そんな自分が嫌で嫌でしょうがなかった。バラエティー番組の方がニーズがあると思い、議員時代のプライドを捨てて呼ばれた番組は全部出ようと思った。今は出る番組を選んでいるが、(タレントの)上沼恵美子さんの番組は必ず出る。番組に出たての頃、上沼さんにけちょんけちょんに言われた。同様の収録が3回続いた後、楽屋に呼ばれてこう言われた。「これはあなたのために言っているのよ。私があなたを思い切り責めることで、視聴者に言い過ぎだと思わせられたら、あなたのみそぎは終わる」と。実際、それで世間の空気が変わり、街を普通に歩けるようになった。上沼さんには恩義を感じている。
―政治への未練はあるのか。
実は今年6月、自民党京都府連の行った京都3区候補者の公募に手を挙げた。西田昌司府連会長が認めるとは思わなかったし、予想通り書類選考で落ちたが、「京都から出てほしい」という私の支援者たちの思いに応えたいという気持ちがあった。議員辞職後に府連の反対でおわび行脚ができなかったこともずっと心に引っかかっていた。死ぬまでには政界に復帰したいという思いはある。立候補するなら自民党から出たい。現職の時は桂川の災害対策やヘルプマークの普及などに力を注いだが、やはり政策を実現しようと思ったら与党だ。(高齢者向けの施策を重視する)シルバー民主主義を変えたいという思いは選挙に出る前からずっと思っていた。日本の深刻な社会的構造に切り込みたい。ただ、自民党が公募で元議員を採用した例は全国的にもほとんどなく、ハードルは高いとも思う。
―京都3区で議席を争った立憲民主党の泉健太代表をどう見ているか。
野党共闘を巡る発言の変遷を見ても、実質的には中間管理職だろうなと思う。雇われ社長の印象は拭えない。自民は右から左までいろいろな考え方の議員がいる中でも、最終的には折り合いをつけることができる。泉さんは党内をまとめるという大きな仕事ができていない。
―最後に府民へのメッセージを。
3年3カ月という短い間ではあるが、国会に送り出していただいた。その経験を生かして社会に貢献したいという気持ちで今までやってきた。「バラエティー番組でチャラチャラしている」というご批判もあるかもしれないが、自分がこれからさらに活躍していくフィールドを広げるためにやっている。ご理解いただき、温かく見守っていただけるとありがたい。