「着物は右前。左前はNG」ーーたびたび話題になる着物の前合わせの左前問題。最近では着物イベントを告知するポスターに、左前の着物を着た女性のイラストが採用され物議を醸しました。左前がタブーとされる理由は、死者に着せる死装束は左前にする風習があるため。そんな中、SNSに気になる投稿がありました。「テレビに出てるお坊さん、着物が左前になってる」。僧侶が着付けを間違えるはずはないのですが…。
僧侶「何回か指摘されたことがあります」
「檀信徒さんから『衣が左右反対ですよ』と何回か言われたことがあります。そのたびに、この法衣は左右逆なんですと説明しています」と笑うのは、兵庫県姫路市内にある真言宗寺院の副住職「てるてる坊主」さん。
信者さんから指摘された衣は「褊衫(へんざん)」と呼ばれる法衣で、左前に着用するように仕立てられています。
「褊衫は法衣の中でも律衣(りつえ)と言って、戒律を重視した法衣になります。もともと授戒や布薩(ふさつ)という仏教の戒律儀式に着する法衣なので、戒律を重んじる僧侶は好んで着します」
法衣の中では一番古い形ともいわれる褊衫。その歴史についても教えてもらいました。
「褊衫はもともとは尼僧のための律衣です。古来インドでは、比丘尼(びくに、尼僧のこと)は祇支(ぎし)という布をつかって左乳を隠してその上から袈裟を着していました。それでも右乳が出るためにそれを覆い隠すのに覆肩(ふけん)という長方形の布を使って隠しました。それが現在の中国に仏教伝来と共に伝わり、祇支と覆布が合わさり、襟と袖を使って着る法衣ができました。それが褊衫です」
では、褊衫はなぜ左前になったのでしょうか。
「最初に左乳を隠す祇支ができ、その次に右乳を隠す覆布ができました。その順番通りに襟を合わせたことから、左右逆になったといわれています」
「着やすい」と好評、好みの色で自作することも
てるてる坊主さんが勤める寺院の住職は褊衫を好んで着るそう。
「法衣には褊衫のほか、素絹(そけん)、袍服(ほうぶく)、直綴(じきとつ)、空衣(うつお)など、いくつか種類がありますが、住職は着やすいという理由で褊衫を着します。背中も脇も縫っていないので体格の変化にも応用できます」
てるてる坊主さんは法衣を手作りすることもあるそうで、「住職には好きな色の生地を選んでもらって、私がミシンで縫います。正式な褊衫は香色(こういろ、明るい灰みの黄赤色)ですが、夏物の褊衫は住職の好みに合わせて涼しい色で作りました」。法務の合間に縫うため、完成するまでに1カ月半ほどかかりましたが「喜んでもらえたので何よりです」。
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ツイッター上には褊衫は左前と知らない人たちによる投稿「お坊さんが左前…すごく気になる」「なんで法衣を左前に着ているのか」「慌てて着たのだろうか」「誰も指摘しなかったのか」などが多く見受けられます。そのような声に対し、ツイッターを利用する僧侶らは「褊衫は左前なんですよ」「着物と違って左前に着ます」「着方を間違えているわけではないんですよ」などとやさしく説明しています。
今後、僧侶の法衣を見る機会があれば、襟元を観察してみては。もし左前だったとしたら、それは褊衫かもしれません。
右前ルール…起源は719年の法律
右前とは、和服の着方の一つで「正面から見たとき、右がわ(左の身ごろ)が上にくる」。一方、左前とは、「正面から見たとき、左がわ(右の身ごろ)が上にくる。ふつうとは逆の着方(死者の装束)とされる」(「三省堂国語辞典」)。
「着物は右前」。このルールは719年発令の衣服令が起源といわれています。
「政府は養老3年(719)2月に『初めて、天下の百姓をして襟を右にせしむ』と、国民に襟の合わせ方を右に統一するようにとの令を出しました。従来の日本人の胡服系衣服は、左衽(まえ)の方が多かったのですが、この時に唐風化の一環として、中国の風習にならって右衽としたわけです。その後次第に、右衽が浸透していき、わが国の襟の基本的な重ね方となって今日の和服に継承されています」(「日本服飾史」増田美子、東京堂出版)
長い歴史のある右前ルールですが、着物の右前、左前をめぐっては、有名人もたびたび炎上騒動に巻き込まれています。原因はスマホなどによる自撮り写真。正しく右前で着付けしていても、インカメラで撮影すると写真が反転し、左前に見えてしまうためです。反転に気付かず自身のSNSに投稿し、「左前に着てる」「死装束だ」「まちがってる」などと指摘されるタレントやモデルは後を絶ちません。
これからの浴衣シーズン、自撮りによる反転には要注意です。