「山、海へ行く。」これは、四季折々にその表情を変える六甲山系と、一年を通して穏やかな瀬戸内の茅渟(ちぬ)の海に挟まれた神戸の発展に一役を買った開発で、山を削って海を埋め立てることを指している。
山を削って宅地開発し、さらに人工島(ポートアイランド・六甲アイランド・空港島)の土地を造成する。土地神話(地価が右肩上がり)の時代には多額の費用を使っても土地の活用はそれ以上の価値を生み出した。だが、神戸ではそうする前にまず水害対策として河川の付け替え工事が必要だった。明治の神戸三大土木工事にも数えられる「湊川隧道」を含む湊川の付け替え工事や生田川の付け替え工事等だ。
湊川付替工事には大阪の実業家・藤田伝三郎(長州出身)や東京の実業家・大倉喜八郎(越後出身)、地元の日本毛織の小曽根喜一郎らも力を注いだ。大倉喜八郎は別荘の土地を神戸市に寄贈し、後の大倉山公園となる。東京・虎ノ門のホテルオークラは実子の大倉喜七郎が大倉邸跡地に建てたホテルで1962年開業だが、ホテルオークラ神戸(1989年開業)がこの大倉山公園や湊川からも、程近いメリケンパークに建てられたのは感慨深い。(筆者は、ホテルオークラ神戸の開業当初レストランに勤めていた。)
旧湊川の位置は現在の湊川公園(兵庫区役所隣接)から新開地にかけてで、地形を見れば明らかにわかるように天井川であったため、川の西側と東側を完全に分断してしまう形状だった。付け替え工事後の新開地は当時の神戸一の繁華街であり、東の浅草、西の新開地と言われたほどの賑わいを見せていたと聞く。
一方、生田川の付け替え工事を請け負ったのは加納宗七である。旧生田川の位置は現在のフラワーロードであり、川の埋め立て後に交通のための道幅の広い道路を通すというのは加納宗七のアイデアだったようだ。現在も「加納町」という地名が残っている。旧生田川のすぐ西側には外国人居留地があって川の氾濫による被害を受けていたため付け替え工事を求められていた。東遊園地のあたりに外国人墓地があったと聞いている。土葬であったため川が氾濫すると大変なことになったようだ。
司馬遼太郎は、「神戸っ子」の連載のなかで「神戸の市民のよさは「芸術というのは市民社会にどのように用ウベキモノカ」という奇妙な知恵を持っているところにある。これはゆゆしき知恵で、日本では、おそらく神戸しか、この「知恵のフンイキ」はないであろう。」という。明治の開港以降、神戸には「日本初」のものが少なくない。神戸には「進取の気風」があった。現在の神戸に果たしてそれはあるのだろうか。脈々と受け継がれてきているといえるだろうか。
さて、都市の人口規模を競うランキング競争からは幸いにして卒業することができた神戸市(昨年7位)は、成熟した都市としてどこへ向かうべきなのか。神戸生まれ神戸育ち、60年弱のあいだ神戸に暮らしている者として、不遜ではあるが自分なりにじっくりと考えてみたいと思う。そのためには1981年のポートピア博覧会以降、1995年の阪神大震災を経て、神戸、あるいは神戸市がどのような道を辿ってきたのかを再確認する必要がある。
参考書籍:「神戸発展異論」著者・寺岡寛氏(中京大学経営研究双書 No.49)