新型コロナウィルスに感染したらどうなるのか。感染症を克服して退院したあとも、仕事や日常生活に大きく影響する現実を、経験者が語ってくれた。
視察した仲間のライブで感染者が?
音楽関係の仕事をやっているAさんは昨年、音楽仲間の演奏を視察がてら聴きに行った。日を替え3回にわたって行われたうちの1回だったが、Aさんがいなかった2回の会場で感染者が出た。
「僕がいた回では1人の感染も出なかったのですが、念のために検査を受けようと思って、自分から保健所に連絡しました」
ところが、保健所の対応は「希望者全員に検査はできません」とのこと。そんなはずはないので、大阪府の相談窓口に連絡してみたら「最寄りの保健所で、すぐ検査を受けてください」という。
「最寄りの保健所で断られたことを伝えたら『折り返し電話します』というので待っていました」
最寄りの保健所から連絡があり、開口一番「14日間の潜伏期間を待たないと検査ができないという意味でした」と告げられた。
「明らかに言い訳ですよね」
ちなみに、一緒に演奏を聴いていた人たちの居住地はバラバラ。検査を行う保健所もそれぞれで異なる。Aさんが最寄りの保健所に連絡した頃には、すでに検査を終えて結果を知らされていた人も多くいたという。
「大きな心で受け止めるなら、保健所の中でもまだ体制が整っておらず、対応が錯綜していたのでしょう」
だが、検査を受け結果待ちの間は「もしかしたら感染しているかもしれない」という不安な状態だ。他所へ訪問する必要のある仕事は、自らキャンセルした。
「ほかの仕事も、あっという間になくなりました」
検査結果は「陰性」だった。
だが、それでひと安心とはならなかった。検査結果は陰性だったのに、取引先から「来ないでください」「近寄らないでください」と、無知と無理解からくる言葉を浴びた。中には冗談まじりに「これは損害賠償モンやで」と笑う人がいたけれど、Aさんは笑えなかった。
まるで「検査を受ける=感染者」のような烙印を押され、世の自粛ムードと相まって仕事はほぼなくなった。
2回目のPCR検査
世の中の自粛ムードが高まるにつれて、生ライブをやる場がなくなったミュージシャンは、活動の場をライブ配信に求めた。
Aさんも、設備投資をして撮影と配信ができる機材を導入した。そうして、少ないながらも音楽関係の仕事をやっていた。
ある日、保健所から連絡があった。
「感染者の濃厚接触者に該当するから検査を受けろというのです」
1回目のPCR検査から、もう数カ月経っている。後日、別の場所で接触した人物が感染していたのだ。
保健所へ行くと「お久しぶりです。お元気でしたか?」と挨拶された。もっとも保健所の職員は、防護服とマスクで完全防備しているから顔が分からない。聞くと、同じ保健所で2回目の検査というのはAさんが初めてだったそうだ。その頃になると保健所の体制が整い、職員も慣れていたため、検査はスムーズに終了した。
このとき、Aさんの心に葛藤が起こる。検査を受けたことを、周りにいうべきか否か。仕事を失った前回の苦い経験がある。保健所の職員に相談したら「結果が分かってからでいいと思いますよ」とのことだった。
「今から思えば、検査を受ける前の日あたりから、体調がおかしいと思うことはありました」
初めは倦怠感がきた。
「高熱が出たときのだるさに似ています。でも発熱はないんですよ。睡眠不足のせいだと思っていました」
あまりにもだるいので、帰宅するのがしんどくなったAさんは仕事場に泊まることにした。蒸し暑い夜だったので、エアコンをつけたまま就寝した。
その夜中、寒気がして目が覚めた。
「震えるほどの寒さでした。外は雨が降っていたので、そのせいで気温が下がったのだと思いました」
次に現れたのが味覚障害だった。
「パイナップルの味がおかしいのです。酸味をまったく感じなくて、甘味だけなんです。熟れたバナナの甘ったるい感じ。パイナップルが傷んでいるのかと思いました」
Aさんの知っている感染者は、味覚をまったく失っていたそうだ。
「それを聞いていたので、味覚障害は、味覚がすべてなくなるものと思い込んでいたんです」
味覚とともに失われるといわれている嗅覚は、とくに異常を感じなかったという。
「僕はもともと鼻炎をもっています。もしかしたら何らかの異常が出ていたけど、気づかなかっただけかもしれません。しかも四六時中マスクをつけた生活でしたから」
それと、息苦しさを感じていたという。
「それもね、食べ過ぎておなかが苦しいときがあるじゃないですか。ああいうレベルなんですよ」
PCR検査の結果は「陽性」と出た。
「直ちに入院してください」という保健所の指示だった。
「公共交通機関を使ってはいけないといわれたので、自分で車を運転していきました」
外部との接触を遮断して病室にカメラが2台
感染者がまだ比較的少ないときだったので、入院先はすぐに見つかった。
「病院に着くと、ソーシャルディスタンスを保つために、保健所職員の10メートル後ろを歩くことと、病院に入る前には靴にカバーをかけ、さらに壁に触らないよう指示されました。しかも入院手続きは、自分でやらないといけませんでした」
入院した直後から、体温が上がってきた。そして深呼吸ができないほどの胸の痛み、激しい咳き込みと続き、症状が急激に進んだ。
「その間、3時間ほどですよ。今よく入院待機中とか自宅療養中に亡くなったニュースを聞きますよね。ああいうことになるのは分かる気がします」
Aさんが入ったのはエボラ出血熱にも対応できる高機能の病室だった。
「室内が陰圧に保たれていて、ドアを開けても空気が外へ漏れないようになっていると、医師と看護師から説明がありました」
さらに医師からは、こういう説明もあった。
「私たちが病室へ入る際、防護服を着るのに5分ほどかかります。病状は我慢しないで、すぐいってください」
防護服は使い捨てだから、1日に何度も着たり脱いだりできない。だから看護師の巡回も、1日に1度か2度だったそうだ。
「その代わり、病室にはモニタリング用のカメラが2台あり、カメラ越しのやり取りでした」
Aさんに投与された薬は「レムデシビル」という、特別認可がおりている医薬品だった。驚くほど効果があって、症状が安定したという。ところが「サイトカインストーム」といって、免疫系が暴走して、自分の体を攻撃してしまう現象が起こる恐れがあった。それは想定内のことで、Aさんはサイトカインストームを抑える薬について、医師から治験への協力を提案された。
「サイトカインストームへの薬の認可がまだおりておらず、そのための治験対象者を探していたのだそうです」
その薬は「アクテムラ」といって、本来はリウマチの薬だという。
「レムデシビルを投与した患者に対するアクテムラの有効性」という治験で、西日本では初めてだと説明を受けた。条件にピッタリ合う患者がAさんだった。
「迷わず同意書にサインをしました。自分の苦しみのためじゃない。薬がないのなら、それに協力することがベストと思ったからね」
治験を開始し、毎日試験官10本ほどの採血と併せて、PCR検査は病院と大学の2つ分だ。唾液によるPCR検査のモニタリングにも協力した。
アクテムラが効いて血液検査の値は数日で安定し、症状は回復へ向かっていった。
退院「まるで刑務所から出所するみたいでした」
入院生活は、完全な隔離だった。病室から物を持ち出せないので、食事に使った食器は廃棄。タオルも下着も、交換したら廃棄である。
入院中に、家族から電話があった。防災無線で、この地域から新型コロナウィルスの患者が出たことを放送しているという。もちろん名前を伏せて。
「同じ地域に住んでいる義理の両親にも、もう隠せないから話すといわれました。まわりに迷惑をかけている感じがして死にたかったですね」
噂はたちまち広がって、ご近所はさながら“犯人捜し”に躍起だったらしい。行きつけの飲食店は「ここで感染したんじゃないの?」とまったく根拠のない噂を立てられて、臨時休業を余儀なくされた。
当時の濃厚接触者の基準は「マスクなしの対面で15分以上の会話」である。Aさんに、その事実はなかった。
幸いというべきか、入院生活は10日ほどで済み、Aさんは退院した。病院の裏口から出て、医師や看護師に「お世話になりました」と頭を下げて、ひっそりと去っていく。
「入ったことはないけど、まるで刑務所から出所するみたいでした」
ちなみに治療費は国費負担なので、Aさんの自己負担はなかった。
「自分で払ったのは、小腹が空いたとき、コンビニで買ってきてもらったお弁当代の450円だけでしたね(笑)」
では、実際に身体の状態がどうなったら退院できるのだろうか。
「医師から受けた説明では、ウィルスは発症から10日経ったら感染力がほぼなくなるそうです。巷では『病床が足りないから軽症の患者を追い出している』という噂を聞きましたけど、そういうことではないです」
個人差はあるだろう。これはAさんのケースである。
退院しても、後遺症が残っていた。
「はっきり『後遺症です』と診断されたわけじゃありませんし、あの頃は後遺症が残ることもはっきり認知されていませんでした。でも、胸の痛みとか脱毛がありました。とくに退院直後には、あばら骨が裏から痛んで身動きが取れないほどでした。それも徐々になくなっていって、今でも時々痛むことはあるんですが、うずくまるほどではありません」
体力も落ちた。10日間ほとんど動かなかったせいかもしれないが、階段で1階から2階まで荷物を運ぶだけで脂汗を流し、ゼーゼーと肩で息をするほどだったという。
日中は外を歩けず
退院はしたものの、すでに噂が広がっていて、日中は外を歩けなかった。ご近所の奥様たちがAさんを見ながらヒソヒソ話をしたり、飲食店に入ったら顔見知りのお年寄りが逃げるように帰っていったりした。
防災無線は、まだ続いていた。
「僕のほかにも感染者が出たそうです」
Aさんは堪らず役所に抗議した。
「今入院している人の帰る場所をなくしている。病院のベッドで自殺でもしたらどうするつもり?」
しかし役所の職員は「ご理解ください」の一点張りで埒が明かない。
「後日、同じ地域にある施設でクラスターが発生したらしいです。そのあとも1回放送があったかな。でも、すぐに止まりました。きっとその施設を利用している人とか家族から、多くの抗議があったのだと思います。田舎行政なんて、そんなものですよ」
Aさんは、日中に外へ出ることを躊躇した。近所の目が怖いのだ。事務所に寝泊まりし、深夜になったら風呂に入るために自宅へ戻る生活になった。
「気にしすぎかもしれませんが、退院して1年近くたった今でもそうです」
人間の無知は、コロナより怖いかもしれない。
人間関係がふるいにかけられた
Aさんは今、ミュージシャンのライブをネット配信したり、依頼を受けてイベントの配信を行ったりしている。
感染したことが分かってから、いろんな差別を受けたし離れていった人もいる。だが、視点を変えると「篩(ふるい)にかけられた」ともいえる。
「今自分の周りに残っている人たちは、お金の取り引きだけじゃないお付き合いをしてくれる人なんですね。以前はお金と引き換えにサービスや技術を提供したり、恩に対して恩で返したりする『ギブアンドテイク』の関係が多かったんですが、今は『一緒に何かやってみよう』という人が多いです」
去っていった人もいれば、かえって強くなった絆もあるのだ。
そして、世間の新型コロナウィルスに感染したことがある人を見る目も、少しずつ変化していることを感じるという。
「誹謗や中傷も多いけれど、一方で、正しいことをちゃんと知りたいという人から『糖尿があるけど、万が一感染したらどうなるんでしょう』とか『感染したらどうなるの?』と、正しい知識を求める人が増えた印象があります」
どうか正しい知識をもってほしい。それが取材に応じてくれたAさんをはじめ「元コロナ患者」の烙印を押されて、差別という二次被害に苦しんでいる人たちの切なる願いでもある。