新聞でたまたま目にした俳優募集記事をきっかけに飛び込んだ映画の世界。高校生だった16歳で井筒和幸監督作『ガキ帝国』(1981年)に出演したことが、俳優・木下ほうか(57)を生んだ。
そこから数えて40年。今でこそドラマ、映画、そしてバラエティと八面六臂の活躍を見せているが、上京してしばらくは表現の場所に恵まれず、飢えていたという。そんな苦節時代を支え、助言をくれた恩人こそ『ガキ帝国』の主演俳優だった島田紳助さんだ。
木下は「もう40年も前の話ですからね…」と記憶をたどろうとするが、出発点であり原点をそう簡単に忘れることはできない。漠然と芸能界に憧れていた高校時代。偶然目にした新聞記事には、地元・大阪を舞台にした不良たちの映画の撮影がはじまると書かれており、俳優を募集していた。履歴書を出すとすぐに撮影隊から集合の令がかかった。
「台本も人生で初めて手にしました。真っ赤な表紙でね、今でも大事にしています。僕はアパッチというチームの役の一員に選ばれて、そのリーダーが今の國村隼さん。あくまで好奇心で参加したわけで、演技をしているという意識なんて僕にはありませんでした。現場に行くたびに、みんな面白いことをやっているなと。お祭りというか、真面目におままごとをしている感じかな」。
夢もなく、やりたいこともなく、進路も決めかねていた時期。ところが完成した映画を観た瞬間、道が開けた気がした。「映画は当時話題になって、ミナミの大きな映画館も満席でした。僕は後ろの方の席で観たんですが、今まで客席側だった自分がスクリーンにいるわけで、その僕が自分の映画を観ながら観客の反応も見ている。単なる素人高校生がですよ? 何この飛躍って思ったし、とどめを刺された。スポットライトを浴びた気分になってしまって、俺にはこれしかないと思ったんです」。
“あいつ映画に出たらしいぞ”。高校ではちょっとしたスターに。有頂天の中、文化祭で演劇を企画して上演したら体育館に千人くらいの生徒が集まり、大ウケの拍手喝さい。幕が下りると舞台袖から進路指導の教師がやって来て“こんな取り柄があったのね!”と号泣されたそうだ。木下は「そりゃ勘違いしますよね!」といまだ照れるが「でも高校時代のこれらの経験が僕の原点といえるでしょう」と当時の高揚した気持ちは薄れない。