東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の森会長発言が大きな問題になりました。発言を批判し、会長を交代させることだけでは、なんら問題の本質的解決にはなっていない、ということです。我が国に、いまだ深く広く根付いている「ジェンダーギャップ問題」について、その実相と本質、そこに存在する深い溝やバイアス、そして、その解決の方途について、行政・政治・国際社会等でのリアルな経験も踏まえ、数回に分けて、考えてみたいと思います。2回目の今回は「ジェンダーの考え方は、時代によって変わってくる」について、考えてみます。
目次
#1 そもそも、ジェンダーギャップとは?
#2 ジェンダーの考え方は、時代によって変わってくる
#3 男性に対するジェンダーバイアスもある
#4 日本の『女性活躍推進』が、うまくいかないのはなぜか?
#5 どの性の人も、どの世代の人も、どんな環境でも、生きていきやすい社会を~時代は変わってきている。希望は大いにある
※なお、LGBTやSOGI(性的指向・性自認)の論点は、極めて重要ですが、今回は取り上げておりません。また、人種差別や少数民族の迫害、ミャンマーや中国、香港等の民主化弾圧、イスラムや途上国における女性差別等々、自由や人権を巡る、深刻で苛烈な問題はたくさんありますが、それらについても、今回は論じる対象としておりません。
ジェンダーの考え方は、時代によって変わってくる。
時代によって、そしてその結果として、世代によって、ジェンダーの捉え方・考え方は、大きく違っています。
(※本来は、歴史、社会・経済情勢、家族形態、宗教、思想信条、文化等に関わる広く複雑な話であり、もちろん例外もあるわけですが、論点を明確にするために、当時一般的であったと考えられるものをベースに、説明させていただきます。)
今の若い方には想像しにくいかもしれませんが、今の高齢世代の方々が現役だった時代には、「男尊女卑」は至極当たり前でした。女性は、男性の後ろに下がって、黙って従う、自分の意見を言うなんてとんでもない。男性は外で働き、女性は家を守る。女性は、高等教育を受けることも、社会に出て働くことも、極めてハードルが高いことでした。
そうした中で生きる女性たちは、今の私たちが想像もできないような、苦労を重ねてきました。そして少しずつ、女性が社会に出るようになってからも、基本的には、あくまでも男性の補助的な役割で、女性は結婚したら当然家庭に入るもの、と考えられていました。
僭越ながら、私が社会に出た四半世紀前(1997年)も、男女は全然平等なんかではありませんでした。男女雇用危機均等法は1986年に施行されましたが、民間企業ではまだ「一部の世の中がうるさいから、仕方なく女性も採用するけど、本音では、女性が会社の戦力になるとは全く思っていない。」という空気でした。そして実際、狭き門をくぐって民間企業に就職したはずの大学の女性の同級生の多くは、銀行、商社、新聞社等、数年で辞めたり、転職したりしていました。皆、能力もやる気も存分にあって、ここでがんばろう!と思って入ったはずですが、どうにもならない“ジェンダーの壁”に、夢破れてしまったのです。
(なお、女性やマイノリティの方が、キャリアアップを目指す際に、資質・実績や制度的な条件は整っているように見えるものの、実はこれを阻む堅牢な「見えない制限」があることを、“ガラスの天井(glass ceiling)”と言いますが、当時の日本は、もっとそれ以前の状況、そもそも、目に見える明確な障壁としての“ジェンダーの壁”が、制度的にも人々の意識の中にも社会にも、実際に至る所に存在し、かつ許容されていた、という状況だったと思います。)
私が入ったのは官庁でしたので、明示的な差別を受けたということはほとんどありませんでしたし、周囲の方々には、当時も今も深く感謝しています。ただ例えば、それでも、同期は女性一人だけで、「女であることで迷惑をかけてはいけない。男性の何倍も働いて、初めて認めてもらえる」とずっと必死の思いでしたし、当時は、育休を取るとか、保育園に迎えに行くなんて、とても考えられないことで、「出産後わずか1週間で職場復帰」した先輩が、ロールモデル(?)として語り草になっていました。
そしてそうした中で、「肩肘張って、女性の権利を主張するようなことは、軋轢を生むだけ」と察し、むしろ、組織や男性社会の論理に過剰なまでに順応することで、なんとか受け入れられようとする人が、自分を含め、多かったように思います。
(なお、後に入ってしまった政治の世界は、世界の中でかなり遅れている日本の中でも、さらにまた一層遅れた、飛びぬけてビックリな世界でしたが、本稿では字数の制限と論点が拡散しすぎてしまうので、省かせていただきます。)