「光秀公、やっぱり坂本城は遠いです」 明智光秀最期の一日を歩いてみた

浅井 佳穂 浅井 佳穂

 明智光秀を主人公にしたNHK大河ドラマ「麒麟(きりん)がくる」が2月7日で最終回を迎える。おそらく光秀の最期も描かれるはずだ。伝承によると、光秀は、山崎の戦い(京都府大山崎町・長岡京市付近)で豊臣秀吉に敗れ、領地の坂本城(大津市)に落ち延びようとした途中、現在の京都市伏見区にあたる小栗栖(おぐりす)で落ち武者狩りに遭い、命を落としたと言われている。では、山崎の戦場からの逃避行はどんな感じだったんだろう。実際に歩いてみることにした。

 まず降り立ったのは、阪急電鉄西山天王山駅(長岡京市)。山崎の戦いの際、秀吉が占領した天王山のほど近くだ。一方の光秀が陣を敷いたといわれるのは恵解山(いげのやま)古墳(長岡京市)だ。古墳に向かう道をたった一人で歩き出す。同行者はいない。

 計画を実行に移す前、部内の会議で「光秀の最期の一日を思って小栗栖まで歩いて記事にしようと思う」と話した。しかし後輩2人はシラッとした表情。「協力します」と言わない。上司はしばらくの沈黙の後「光秀は馬じゃねえの?そんなしんどい取材しなくても」と言った。そんな訳でたった一人の旅路なのだ。

 恵解山古墳に着いた。古墳は5世紀前半の前方後円墳だ。山崎の戦いは1582(天正10)年6月13日午後4時ごろに始まったとされる。高さ約10メートルの前方部に勢いよく登る。天王山方向がよく見える。うーむ、光秀軍は劣勢な様子。直線距離で500メートルほど離れた勝竜寺城(長岡京市)に逃げることになった。

 足軽気分で駆けだす。逃避行の始まりだ。首から一眼レフカメラ、左手には刀に見立てたカメラの一脚、背中にはよろい代わりのノートパソコン入りリュックサックといういでたちである。

 復元された勝竜寺城が見えてきた。さらには明智家のキキョウ紋ののぼりも多く立っていた。心強く感じる。

 勝竜寺城には城郭風の歴史ミュージアムがあり、城の歴史や光秀との関わりを紹介している。史実の光秀は、6月13日夜に城の北門を出て、坂本城を目指したらしい。

 北門を出たものの、どう行けばよいか分からない。幸い京都には、1892(明治25)年の地図を現代のグーグルマップに重ねながら見られる「近代京都オーバーレイマップ」という便利なツールがある。

 スマートフォンでマップを見ると、長岡京市内の神足神社や市スポーツセンターの南を通る東西にまっすぐな道は、1892年の地図で既に描かれている。実際に光秀一行が通ったかどうかは不明だが、この歴史がありそうな道を歩くことにする。

 名神高速道路をくぐる。光秀の時代に高速道路があれば、坂本城どころか岐阜でもすぐだけど…。長岡京市スポーツセンターの前を通過し、東海道新幹線の高架下の道路を北に歩く。

 高架下を約300メートル歩き東側に出ると、北東へ向かうほぼ一直線の道に出る。「久我(こが)縄手」という平安時代からある道だ。1969年発行の「京都の歴史4 桃山の開花」は、光秀のたどった道について「久我縄手から伏見の北をすすみ、大亀谷を経て小栗栖に至った」と記している。

 約千年続く久我縄手の道幅は自動車1台分余りと狭い。両側は工場街で、さまざまな機械音が聞こえ、独特のにおいが漂う。

 さて、小栗栖方向に行くには、どこかで桂川を越えないといけない。馬上の光秀は川に入ることは容易だが、足軽も川をざぶざぶと水に漬かりながら渡ったのだろうか。令和の「足軽記者」は川に入ることはさすがにできない。

 1892年の地図で橋が架かっているのは現在の久我橋付近。光秀の時代に橋が架かっていたとは思えないが、古くから人の往来はあったのだろう。久我縄手を進み久我橋を渡るルートを選択する。

 現代の行政区分では、長岡京市から京都市伏見区に入っていた。古道・久我縄手は自動車1台分の細い道路から、片側1車線で歩道の付いた立派な道路に変身している。周囲にはスーパー銭湯やスーパーマーケットがあり、にぎやかだ。

 恵解山古墳を出て1時間余り。疲労感に空腹感が重なる。道路を行き交うバスが目に入ると、時折乗りたい誘惑に駆られる。次第に道幅は狭くなり、家並みが道の両側に迫る。古道の雰囲気を醸し出している。光秀の時代もこんな道だったのだろうか。

 久我橋まで来た。光秀一行は秀吉軍が追ってこないか気になっただろう。振り返ると、天王山はずいぶん遠くに見えた。

 西高瀬川、鴨川に架かる橋を渡ったところでカレー店を見つけた。30分ほど休憩。すでに歩き始めて約2時間。足が痛い。

 腹を満たし、主君長谷川博己公もとい、明智光秀公を仰ぎ見ながら、小栗栖、さらには坂本城を目指す意志を再確認する。伏見区を東西に横切る津知橋通りは1892年の地図に載っている古い道だ。しかし、伏見の町は光秀の敵、秀吉の造った町だ。山崎の戦い以降に整備されているので、本当に光秀公が通ったかどうかはよく分からない。

 第二京阪道路をくぐり、近鉄の高架下も抜ける。京阪電鉄の踏切を越すと上り坂になってきた。通りの突き当たりを南に曲がり、上板橋通りに出る。JR奈良線の踏切を越すと勾配はさらにきつくなる。いったん西方向を振り返る。木々がさえぎって天王山はよく見えない。

 さらに歩くと、南側には伏見城の遺構を利用した広大な伏見北堀公園が広がる。秀吉役の俳優佐々木蔵之介さんの顔を思い浮かべながら「秀吉め、こんな広大な城を築いたのか」と思わざるを得ない。

 坂を上りきると「伏見城武家地 黒田長政下屋敷参考地」の石碑がある丁字路に来た。手元のグーグルマップを見ると、南へと向かうルートが良さそうだ。でもずいぶん遠回りだ。

 坂本城へと急ぐ一行が深夜に遠回りしたとは思えない。1892年の地図を見ると、丁字路を北へ進み、仏国寺というお寺の北側から小栗栖方向へと抜ける道が描かれているではないか。

 住宅街を進む。どんどん勾配がきつくなり、人けがなくなる。とうとう人家はなくなり、道も未舗装となった。両側には竹やぶが広がり、場所によっては竹が頭上を覆っている。

 時刻は午後4時前。すでに日は傾き、竹やぶの中は薄暗い。竹が風に揺れ、葉が擦れ合う音。不気味な雰囲気が漂う。竹やぶに落ち武者狩りが潜んでいても確かに気がつかないだろう。徐々に下り坂になっていった。自然と小走りになる。「弘法大師杖(つえ)の水」と書かれた小さなほこらが見えてきた。人の気配がする。ほっとした。

 「明智藪(やぶ)」ののぼりが見えてきた。もう体力はほとんど残っていない。両足の太ももは表裏ともに痛む。「明智藪」の石碑前にたどり着いた。

 光秀公が果たせなかった本来の目的地、坂本城まで行こう。そう思った。さすがに電車に乗ろうと思い、手元のスマホで所要時間を検索した。複数の検索結果は電車で1時間ほどかかると示していた。ここから1時間…。もうそんな体力も気力もない。

 光秀公ごめんなさい。約12キロを4時間かけて歩きましたが、もう坂本城まで行けません。諦めて会社に戻った。

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