患者さんに「寄り添う」と、みんな簡単に言うけれど…理想の医療従事者像とは

ドクター備忘録

中塚 美智子 中塚 美智子
患者さんの多くは痛みや不安、辛さを抱えて医療機関に来られますが…(buritora/stock.adobe.com)
患者さんの多くは痛みや不安、辛さを抱えて医療機関に来られますが…(buritora/stock.adobe.com)

「常に患者さんに『寄り添う』歯科衛生士になりたい。」

学生に理想の歯科衛生士像について作文を書いてもらったところ、ほぼ全員判で押したようにこう始めていました。

私「『寄り添う』ってどういうことかな?」

学生「…。」

私「何か思っていることがあるから書いたんやんねえ?」

学生「…。」

もし私が「理想の歯科医師像」を作文にしろと言われたら(言われないでしょうが)、絶対「寄り添う」とは書きません。そう簡単に書けないからです。

  医療系のみならず福祉系、カウンセリングの現場でも「患者さんに寄り添う」、「こころに寄り添う」といった表現が用いられています。本当に大切な言葉なのですが、使われれば使われるほどこの言葉が軽んじられていくのではないかと気になりました。「『寄り添う』と言っておけば何となく収まる」という共通認識のようなものがもしあるとしたら、ちょっと恐ろしさすら覚えます。

 学生時代、友人に「その気持ちすごくわかる」と言ったら、「人の気持ちなんかわかるわけないやろ!」と怒られました。私自身、相手を尊重して言ったつもりでしたが、決してその当事者ではない。患者さんの多くは痛みや不安、辛さを抱えて医療機関に来られますが、患者さんが感じられたことと医療従事者が想像した患者さんの内面は決して同化しないし、どの程度符合したかを確かめる術もありません。

さらに、1人として同じ患者さんはいらっしゃらず、同じ方でも時と場合、年齢や環境などによって感じ方が異なるはず。となると、簡単に「寄り添う」といっても、最悪の場合、医療従事者本人の自己満足に終わってしまう危険性もはらんでいるように感じます。

 理想の歯科衛生士像だから、「患者さんに寄り添う」でいいじゃないかという意見もあるかもしれません。しかし、寄り添うと言った段階で納得してそこに収まってしまうと、最も大切なところが見えなくなりはしないか。学生には「寄り添う」という表現で満足せず、それがどういうことなのか、患者さんにとってどれほど大きな意味を持つのか、現場に出ても常に考え続けてほしいと思っています。

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