もっと不思議で怖い話が六道珍皇寺にありました。
何と「お岩さん」の等身大の像があるというのです。「お岩さん」とは江戸時代の歌舞伎「東海道四谷怪談」に登場する、毒で顔を醜くされた女性の幽霊です。「見ない方がええ。ほんま恐ろしい顔やから、見たらしばらく眠れませんわ」。住職によれば、清水焼で精巧に作られ、長い髪もあるといいます。そう言われると見たくなるのが人情というものですが、ここは住職の助言に従うことにいたしました。決して恐れをなした訳ではありません。
お岩さんの像は、住職によると明治の頃、さる資産家が清水焼の陶工に依頼して作ってもらったそう。ところが、その家に災いが生じ、家運が傾いたため、ある神社に奉納。しかし、その神社も恐れをなして、先々代の住職の時に寺に納められました。当初は閻魔(えんま)大王像がある堂に置きましたが、お岩像が「あまりにも怖い」と境内に小さなほこらを設け、「お岩大明神」として今もそのほこらの中にまつってあります。
それにしても、資産家はなぜそんなにリアルな「お岩像」を作らせたのか。「記録がないもんで、さっぱり分かりません」とご住職。何ともミステリアスな話ではございませんか。
次の舞台はちょっと郊外に飛びまして、市内北部の岩倉にある妙満寺(左京区岩倉幡枝町)。ここは「安珍・清姫伝説」に登場する道成寺(和歌山県)の鐘があることで知られますが、堤教授はここでも意外な事実に出合いました。
この伝説は、女がほれた僧を追いかけるうちに蛇になり、僧が道成寺の鐘の中に隠れると鐘に巻き付いて嫉妬の炎で鐘ごと焼き殺すというもの。鐘は再鋳されますが近隣に災いが続いたため、山林に捨てられました。その後、豊臣秀吉の家臣が戦利品として持ち帰り、京の妙満寺に奉納されたといいます。
江戸時代になると、妙満寺はこの鐘を江戸に運び、「出開帳」として人々に公開したそうでございます。その際の説明に使ったとみられる国立国会図書館蔵の縁起には、妙満寺で誤って鐘を落としてしまい、30センチほどのひびが入ってしまったとある。再び鋳造しようとすると天変地異が起こったのでやめた。宝蔵に納めると自然にひびが直ったと書かれているそうです。
堤教授がこのことを寺に伝えると、確かに鐘の上部にひびの跡があるというではありませんか。普段、鐘は厨子(ずし)に安置しているため、上部のひびは見ることができません。堤教授が特別に見せてもらうと、確かにいくつかひび割れの跡が確認されました。「出開帳の興行主が勝手に作った話かとも思っていたが、事実に即した話だったとは」と堤教授は驚きます。
この鐘は現在、厨子から出して9月まで展示しておりますので、ひび割れを間近に見ることができます。
堤教授は「京都怪談巡礼」で京都でのフィールドワークをたくさん紹介するとともに、京都で江戸初期に生まれた怪談作品に光を当てています。
京都の怪談と聞けば、多くの人々は夜の都大路を駆け巡る百鬼夜行や陰陽師(おんみょうじ)の妖怪退治など、平安京の時代を思い浮かべることでしょう。しかし、堤教授は「江戸の文化がまだ熟さない17~18世紀、怪談文化の発信源はやはり京都だった」とおっしゃいます。「大衆的な絵入りの怪異小説が老舗の版元から次々と刊行されるなど、怪談エンターテインメントともいる文芸ジャンルが京都でいち早く花開いたが、これまであまり注目されてこなかった」
誰も知らない怖い話が、京都にはまだまだ眠っているかもしれません。