「あんたの家の近くに住む」
お盆の帰省中、78歳の母から突然そう告げられた、いずみさん(43歳・仮名)。母は今の暮らしを気に入っていて、友人も多く、料理や裁縫、庭仕事などを楽しんでいます。
それでも、「将来を考えると、今のうちに娘の近くへ引っ越した方がいい」と考えているというのです。
今ある暮らしを手放してまで、娘の近くへ移った方がよいのか――。帰省から戻ったいずみさんから、社会福祉士である筆者のもとに相談がありました。
いずみさんの母・律子さん(78歳・仮名)は料理上手です。いずみさんがお盆に遠方の実家へ帰省した際も、律子さんはフルコースの手料理を振る舞ってくれました。
そして、いずみさんが最後のデザートを食べ終わったタイミングを見計らって、今後の生活について話し始めたそうです。
自分も高齢になって、以前より歩きづらくなってきた。体力もなくなってきている。まだまだ若いと思っていたのに、気が付けば背中も曲がってきている。さすがに将来が心配だ。
だから、まだ元気なうちに、いずみさんの住む地域に引っ越して、その地域で友達を作って楽しく暮らしたい。いよいよの時になったら、いずみさんに手続をしてもらって、その地域の高齢者施設に入居する。
…そんな内容でした。
母はいつまでも元気だと思い、どこか子供気分でいたいずみさんは驚きました。
「今の生活が嫌なの?」と尋ねると、律子さんは、現在の生活は気に入っているが、将来を考えるとそうせざるを得ないのだ、と答えたのだそうです。
豊かな生活、母の生きがい
母にはできる限り、幸せな生活を送ってほしい。母にとってより良い今後のルートは、一体どんなものなのだろう。いずみさんは、律子さんの現在の生活をあらためて考えました。
律子さんは多趣味です。
裁縫が好きで、自宅には裁縫部屋があります。職人用の足踏みミシンをはじめ、用途の違う多くのミシンや材料が整理され、さながら仕事部屋のようです。
着道楽でもあり、部屋の一つはさまざまな服飾品、装飾品の保管に使われています。
料理も得意です。友人を自宅に招いて料理を振る舞うのが好きで、大量の料理器具や美しい食器類が広いキッチンに並んでいます。壁には、自分のレシピを書き込んだ花柄のカードが一定間隔で貼ってあります。
社交的で友人も多く、「スポーツクラブのAさんと買い物」「昔の同僚のBさんと食事」「近所のCさんと映画」と、あちこちによく出掛けています。いずみさんが電話をしても外出中のことが多く、要件を伝えると大体すぐ切られるそうです。
日当たりの良い庭で庭木に水やりをするのも好きです。葉っぱを食べる青虫を観察し、春先には若いウグイスがやってきて鳴く練習をするのを楽しんでいます。料理の飾り付けに使う花やハーブも育てています。
考えれば考えるほど、豊かで素敵な生活です。
ただ、それは今の場所、家、人間関係があるからこそ成り立っている生活でもあります。
見知らぬ土地に移って、一から親しい友人ができるかは分かりません。広い家で多くのものを持ちながら暮らせるのは地方だからこそで、いずみさんの住む都市部ではなかなか実現できることではありません。
その生活を捨てるのは、あまりにも勿体ない。一方で、「捨てなければならない」と思うほど、将来に不安を抱えていることも分かりました。
充実した生活をできるだけ長く続けるために
相談を受けた筆者はまず、「律子さん自身が今どう暮らしたいのか」を考えました。
律子さんは今の生活を楽しんでいます。であれば、できる限り長く、今の場所、自宅で、今の生活を続けることが、ご本人にとっての理想なのではないか。
そのうえで、自宅での生活が難しくなった段階で、いずみさんの居住地域への転居も含め、その時の状態に応じた住まいや施設を検討してはどうかと提案しました。
そして今回、筆者は転居を考える一つの目安として、身体面と認知機能面、それぞれの変化を挙げました。
身体面では、身体的な自立度が下がり、入浴や排泄、更衣に必要な介助が多くなるなど、一人で生活することに不安が出てきた場合です。
認知機能面については、慣れているはずの道に迷って帰宅できないなど、比較的初期の認知機能の低下がみられた段階で、今後の暮らし方について検討を始めることを勧めました。認知機能の低下がさらに進むと、長距離の移動や環境の大きな変化が心身の負担になる可能性があるためです。
今の暮らしを続けるために利用できる支援
自宅での生活をできるだけ長く続けるためには、地域の相談先を知っておくことも重要です。
暮らしの中で不安が出てきた場合、まず相談先となるのが地元の地域包括支援センターです。
地域包括支援センターは、高齢者本人や家族の介護・生活上の困り事について相談を受ける地域の総合相談窓口です。必要に応じて、要介護認定の申請や介護予防などの支援につないでもらうことができます。
要支援・要介護の認定を受けた場合には、その状態に応じて、訪問系・通所系のサービス、福祉用具、住宅改修など、自宅での生活を支える支援を利用できる場合があります。
つまり、「一人暮らしが難しくなったら、すぐ施設へ」という二択ではありません。支援を利用しながら、今の生活を続ける方法もあります。
一方、一口に「施設に入る」といっても、高齢者向けの施設や住まいにはさまざまな種類があります。
特別養護老人ホーム(特養)は原則として要介護3以上の人が対象で、常時介護を受けながら長く生活する施設です。
介護老人保健施設(老健)は、リハビリなどを行い、在宅復帰や在宅生活の支援を目指す施設で、長期の生活の場としての入所を主目的とした施設ではありません。
医療的な管理と介護の双方を長期にわたって必要とする人には、医療と介護を一体的に提供する介護医療院があります。
認知症の人を対象とする認知症グループホームでは、少人数で共同生活をしながら介護を受けます。
また、民間が運営する有料老人ホームには、施設内で介護を受けられる「介護付き」と、必要に応じて外部の介護サービスを利用する「住宅型」などがあります。
このほか、比較的自立した高齢者向けの住まいとして、サービス付き高齢者向け住宅(サ高住)やケアハウスなどもあります。
このように、高齢者向けの施設や住まいは、本人の身体状態や認知症の有無、医療の必要性、経済状況などによって選択肢が異なります。
そのため、「いよいよの時になったら施設を探す」のではなく、元気な段階から、将来どんな選択肢があるのかを調べておくことが大切です。
母が元気な段階の今、何をすべきなのか
いずみさんがこうした話を律子さんにしたところ、律子さんは「ここで暮らしていいんだ」と安心したそうです。
当面、いずみさんは実家への帰省頻度を3カ月に1度に増やし、一人暮らしを続けられる状態かどうか、身体的自立度と認知機能の程度を確認することにしました。
また、実家の地域包括支援センターの電話番号と場所を確認。母の状態に応じて近隣にどのような施設や住まいがあるのかを探し、折をみて、延命医療の希望についても聞いておくことにしました。
律子さんには、今後も歩き続けられるよう病院などで検査して適切な処置を行うこと、生活面や認知面で何か不安があったら連絡することをお願いしました。
すると律子さんは、いずみさんの居住地域に旅行がてら状況報告に行く、その地域の面白そうな布地店を検索して見つけたから、と喜んでいたそうです。
◇ ◇
高齢になるにつれ、できなくなることは少しずつ増えていきます。ただ、まだ元気なうちから、大切に築いてきた暮らしをすべて手放さなければならないとは限りません。
何が不安なのかを明らかにし、今ある環境や制度を活用する。そして、身体面や認知面に変化が出た時の選択肢を、あらかじめ知っておく。
そうして将来に備えることが、「今の生活を続けていい」という安心感につながり、少しでも長く今の暮らしを楽しむための土台になることが分かった事例でした。
◇山下静香(やました・しずか)関西第一司法書士事務所所属。事務職兼社会福祉士。
相続、成年後見、不動産登記などの実務に携わる一方、高齢者支援や福祉分野にも従事。 法律と生活、双方の領域にまたがる現場経験をもとに、「制度の中で実際に起きていること」をテーマに執筆している。 相続や介護、家族をめぐる身近な問題について、わかりやすく伝えることを目指している。