約20年前、視覚障害のあるセアまりさん(本名・浅野麻里さん=75歳)は、ある眼科医に言われました。「すぐに消えますよ」と。何が消えるのか。それは、彼女の目の前に広がる無数の“幻視”のことでした。
「私は『網膜色素変性症』という難病を患い、視力低下や視野狭窄が進行、今は全盲になりました。その中で、25年程前から『シャルル・ボネ症候群』という症状が出て、朝目覚めたときから眠りに落ちるまで、一日中、目を閉じてもなお目の前に“幻視”が現れ続けています。色鮮やかな幾何学模様、動く花々、そそり立つ建物、徐々に動物に変化していく人間の顔…それらが何層にも重なって、現れては消えていくのです」
先述の眼科医は「すぐに消える」と言いましたが、実際は今もセアまりさんを悩ませています。
セアまりさんは両親ともに画家の家庭に育ち、幼い頃から絵に親しんできました。大人になり友禅の染色家として活動していましたが、網膜色素変性症を患い断念。それでもチャレンジすることをやめず、視力が低下する中、フリーダイビングで国際大会に出場したり、イルカたちと一緒に泳いだり。沖縄・久米島を訪れた際は、パラグライダーや浜辺での乗馬も体験したと言います。
「一番心が落ち着く場所は海。パラグライダーでは空から見える海の様子を丁寧に説明していただき、まるで自分の中にその景色が広がっていくような感覚になりました」
同行したのは2代目盲導犬・ベーチェル。ベーチェルは奄美へも一緒に行ってくれ、2月の冷たい海の中、セアまりさんはクジラを追ってダイビングしたそうです。「初代・フリルとはハワイの海へ、ベーチェルとは船で小笠原の海へも行きました」と楽しそうに話すセアまりさん。今一緒に暮らす3代目・ステラとも、これからいろいろな場所へ行くのでしょう。
「飛行機の旅では、いつも客室乗務員の皆様に温かく支えていただきました。その感謝の気持ちも込めて、今年2月に航空会社の従業員の方に向けて、これまでの体験や盲導犬との旅についてお話させていただきました」
まだまだあります。陶芸、ヨガ、タンデム自転車、ブラインドメイク、バードウォッチングなどは実際に体験し、アニマルコミュニケーションや料理の講座には目が見える人たちに交じって参加してきました。「見えないことは決してマイナスではなく、好奇心が新しい世界を広げてくれる」と常に前向きなセアまりさん。傍らにはいつも寄り添ってくれる盲導犬の存在があるのですが、その話はまた次の記事で。
「理解しているよ」のひと言が薬に
2020年、セアまりさんはシャルル・ボネ症候群によって見える幻視を“可視化”することに挑戦しました。「針の穴ほど」の視野しか残されていませんでしたが、彼女の感性を理解し、共有してくれる仲間のサポートを得ながら、絵に描き起こしたのです。東京での展示会にはコロナ禍の中、多くの人が足を運び、シャルル・ボネ症候群について知ってもらうきっかけづくりとしては大成功を収めました。
けれども、ご本人の中にはくすぶるものがありました。
「絵を見て『美しい』と言ってくださる方が多くいましたが、私が見ているのは単に美しい世界ではありません。シャルル・ボネ症候群とともに生きるということは、鬱陶しさ、静けさへの渇望、歩きにくさ…さまざまなものが付いてくるのです」
そうした感覚は言葉では伝わらない。絵でも不十分。本当の意味で伝えるには実際に体験してもらうしかない――セアまりさんはそう考え、“動く”幻視を展示して疑似体験してもらうという難題にチャレンジしたのです。
制作工程等については前回の記事に記しましたが、実現に向けてセアまりさんを突き動かしたのは、「同じ症状に悩む人たちの力になりたい」という強い思いでした。
「眼科の先生の中にも、まだシャルル・ボネ症候群をご存じない方がいるかもしれません。ご存じでも『これは眼科の分野ではない』と言われる可能性もあります。でも、シャルル・ボネ症候群に悩む人たちの中には、気持ち悪いもの、汚いものが見える人も少なくないようで、症状を訴える患者は苦しんでいるのです。
精神疾患を疑いカミングアウトできない方々もいます。今回、会場で動く作品を体験していただければ、それが『美しい』という言葉だけでは片づけられないものであることを、しっかり感じていただけると思っています。そして、疑似体験した方の『理解しているよ』のひと言は、症状に苦しむ方たちにとって、何よりの薬になるに違いありません」
セアまりさんは幻視の世界を「面白い」「きれい」「興味深い」といった前向きな言葉で表現します。それも嘘ではないけれど、本音を言えば、「そうでもしなければ心を保てない」から。
「芸術的に見れば興味深い映像も多くありますが、この状況は人を壊してしまうかもしれないと感じる日もあります。とても疲れますし、めまいを覚えて一人では歩けなくなることも。テレビのようにスイッチOFFにできればいいのに…と何度思ったか知れません。これから先、この像たちがさらに多く、さらに強くなっていったらどうなるのか、そんな不安を抱く日もあります。でも、これが私の現実。『神様からの授かりもの』と受け止めています」
不安や恐怖と闘いながらも現実を受け入れ、同じ悩みを抱える誰かのために挑み続けるセアまりさん。展示される作品には彼女の愛と覚悟が詰まっています。
『セアまり作品展 見えない私が描く世界』
期間:2026年4月21日(火)~28日(火)
時間:10:00~17:00(最終日~15:00)
会場:京王プラザホテル本館3階ロビーギャラリー(東京都新宿区西新宿2-2-1)
作者トークイベント:4月21日(火)・26日(日)、各日13:00~、各日20名限定、要予約
※予約は4月15日10:00~17:00に京王プラザホテルロビーギャラリーまで電話にて(TEL 03-5322-8061)
※見えない方、見えにくい方にも作品を理解していただけるよう、作品にはすべて音声ガイドが付いています