誰もが口ずさめる印象的なCMメロディで一躍有名になった「サカイ引越センター」。年間で83万件ほど引っ越しを取り扱い、11年連続業界No.1で売上高1013億円(2024年3月期)にものぼります。大阪・堺市で夫婦一代で引越し業を立ち上げ、1000億円企業へと導いた画期的なアイデアとは!?今では当たり前になっているサービスを生み出した秘訣をご紹介します!
大阪・堺から日本一に!始まりは小さな運送屋⁉
1971年、大阪・堺市。サカイ引越センターの創業者である田島憲一郎は妻・治子とともに父親から譲り受けた中古車2台をもとに運送会社を立ち上げました。
家業の看板を借りた独立だったため、「大阪市以北には出るな」という父の制約のもと、縁もゆかりもない堺市で運送業を始めるも老舗の業者が多く、新参者が入り込む余地はない状態。立ち上げた数年後には経営は厳しい状態に。
そこで、誰も手につけていない未開拓の仕事をしようと考えていたところ、憲一郎は引っ越しの風景を多く見かけるようになります。その理由は・・・泉北ニュータウンの建設!
憲一郎は何万人もの人々の大移動をビジネスチャンスととらえ、競合他社がやっていない引越荷物の運搬に力を入れることにしました。
当時引っ越しは、自分達で行うものだったため、会社に頼むという文化がありませんでした。引っ越し荷物の運搬は、時々運送業者が片手間で行っていた“すきま産業”であり、あまり認知もされていませんでした。
引越しを会社に頼む文化がない時代、電柱に大量の看板を張って宣伝!
そんな当時の状況を話してくださったのは、サカイ引越センター専務取締役の山野幹夫さん。“引っ越し屋”の認知を獲得するための驚きの手法がありました。
まずは憲一郎たちが行ったのは、電柱に大量の看板を張って宣伝してまわったこと。今ではNGの宣伝行為、看板に電話番号が書いてあったので「看板を外せ」と電話がきて、貼っては外され、また貼っては外されるという行為を繰り返していたといいます。しかしその甲斐あって注文が殺到!
1979年、予想以上の反響に手応えを感じ、次なる一手として、“引っ越し屋”がより分かりやすくなるよう家業「新海商運」から社名を変更することに。
当時は電話で注文が入る時代。電話帳で会社を調べることを踏まえ、電話帳の一番上に記載されることを見越した名前とは・・・「アーイ引越センター」!この戦略は見事大成功し注文が多く入りましたが、その後地域に根ざした会社として「堺引越センター」に、1990年からは全国展開を見据え、地域色を薄めた「サカイ引越センター」になりました。
「勉強しまっせ」インパクト大の超有名CM誕生秘話
1980年代後半、堺から関東へ勢力を伸ばし始めた頃、憲一郎は知名度が上がる印象的なCMを作りたいと悩んでいました。
そこで思いついたのが、子どもに名前を覚えてもらえるCM。ターゲットは大人ですが、子どもがCMの真似をすることで、大人にも名前が伝わると考えたのです。
そうして1993年に誕生したのがあの超有名CM。引っ越しを行う映像はありませんが、頭に残るメロディがインパクト大で“認知度をあげたい”という狙い通り、知名度アップにつながりました。
さらにCMだけではなく、トラックにも一工夫が!パンダのキャラクターを描くことで子どもたちの「パンダのトラックがいい」という声が母親たちの注文にもつながったそうです。
そうして2014年にはついに売上高日本一位となった「サカイ引越センター」。その背景には、他社が行っていなかった斬新なアイデアの実践がありました。